『新しく生きる者として』(マタイによる福音書5章17〜20節) ( 5.31/2010 )
「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」マタイによる福音書5章20節

ここ須賀川シオンの丘で東北教区、関東教区の兄弟姉妹方、子どもたちと共に奉仕をなし、礼拝をささげることができ、心から感謝。今朝の礼拝の聖書箇所は、山上の説教以外の場所からは考えられなかった。

イエス様の山上の説教はマタイ5章から7章にわたり、分量的にも長く、内容的にも濃い。皆様も親しまれ、それぞれに好きな聖句があるのではないか。「心の貧しい人は幸いである。」「あなたがたは地の塩、世の光である。」「空の鳥、野の花を見なさい。」「神の国と神の義とを求めなさい。」「狭い門から入れ」… 実は長いこの説教を読み解くカギとなる御言がある。上記の5章20節である。

義という言葉が2回出てくるが、義とは正しさである。律法学者は宗教上の指導者であるエリート。パリサイ人は律法を守り、神様のきよさに生きようとしていた。それぞれに良い動機を持ち、真剣な者たちであった。残念なことにイエス様の時代、形ばかりのものになっていた。彼らには人から良く見られたいという名誉心、自己顕示欲が強く、神様の義からは遠く離れてしまっていた。

律法学者、パリサイ人らは人が自分を正しくしようとして失敗した例である。人が自ら神様に近づきえないのなら、人を超えた力、人を超えた救いが必要である。優秀な律法学者を目指したパウロは、ダマスコ途上、復活のイエス様との出会いによって打ち砕かれた。目が開かれた時には、別の世界が開かれていた。今まで求めた行いによる義ではなく、信仰による義である(ガラテヤ2章16節)。

信仰によって義とされる姿は、ルカ15章の放蕩息子にある。父親の元に帰った弟息子に最上の着物が着せられた。行いは最低のものであった弟息子が心砕かれて、立ち返った時に、罪が赦され、義とされた。私たちもイエス様によって新しい衣を着せられている。

(説教者;黒磯教会牧師 井上義実師 5月30日 関東東北教区合同礼拝にて)

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