「手でなく心を」(マルコ7章1〜23節) ( 1.8/2012 )
「さらに言われた、『人から出て来るもの、それが人をけがすのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである』。」(20〜23節)

(あの人、スカン)とか、(あの人のココが悪い)とか思ったことはありませんか。律法の先生は表面的な清いわざを期待していたようです。それで主イエスのことが嫌いだったのでしょう。なぜならば主イエスは手を洗うことなどのしきたりを全く重んじていなかったからです。
 
主イエスの問題提起は問題の核心が心の中にあるという点です。悪い思いを持ちながら表面的に良いわざが出来ても何の徳もないと指摘しておられるようです。そしてクリスチャンが反省しなければならないのは、自らに対しては寛容でごまかしつつ隣人には信仰の名を借りて信仰とは異なる律法を押しつけがちな点です。社会の人々は当たり前のようにそれぞれの弱さを知り受け入れて生活しています。主イエスも恐らく手を洗う洗わないの問題でなく心の中に湧いてくる様々な悪意や汚れた思いをどうすればよいのか、と日々戦っておられたのです。
 
テレビドラマの最後に「これはフィクションです」というテロップが出ることがよくあります。律法学者も同様です。(格好をつけたい)というのが価値観です。しかし、本当の救いとは犬が飼い主に腹を見せるように汚れた姿の自分を神にうち明け助けを求めることなのだと、ここでは教えているのではないでしょうか。助けを求めた分だけ隣人への愛も与えられるのではないでしょうか。見た目ではなく心が大切です。

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