「悪しきパン種に警戒」(マルコ8章1〜26節) ( 2.5/2012 )
「 そのとき、イエスは彼らを戒めて、『パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ』と言われた。」(15節)

このところで言われている「パンだね」は、ある意味誇りを象徴していると考えます。直前の部分に登場するギリシャ人女性は犬と呼ばれてました。しかし、これは、ここまで読み進みますと、厳しい顔で言われたのではなく、優しい顔で女性を試そうとして言われたのかもしれません。イエスがパリサイ人の真似をして見せたのではないか。そして、ギリシャ人の女性はそれに対するイエスの望んでいる答えを知っていて「子犬でもおこぼれにあずかります」と、機知に富んだ返答をしたのではないでしょうか。

パンは主イエスの時代にも神のからだを意味する聖なるものであったと言われます。たとえ人が人を差別し、どんなに困難なパンを食べることになったとしても、神のパンとしての価値は決して低くはならない。どんな課題や悲しみを抱える「犬」扱いされる人でも、テーブルから落ちたくずを頂いても、神との交わりにつながる尊い糧に区別はない。と言うのがギリシャ人女性と主イエスの感じた共通の理解であったでしょう。

今日の箇所では、ヘロデとパリサイ人のパン種が引き合いに出されています。そして、目に不自由を感じておられた方の癒しの記事が続きます。パンとパン屑、弱者に対する人の誇りは序列を勝手に作り出します。どんなに違った生涯を神から預かっている方も、神の目には欠けた所がない、十全な存在なのだ、自分自身を誇る驕り高ぶったパリサイ派やヘロデは間違っている、誇るなら神とパンの奇跡(神の国)を誇れと教えています。

パリサイ派のような律法に縛られ被差別民を見下し、しるし(徴)をイエスに要求する宗教権威、そしてヘロデのような独裁的権力、こういうものをパンの奇跡(神の国)に持ち込んではならない、そのようなことをしていては、神の国が悪しきパン種で膨れてしまう、そうしないように気をつけろと警告しているのではないでしょうか。

宗教権威も一つ間違えば驕った誇りを生み出します。神の国は、愛と自由の平等な世界です。私達も自分を誇らず、神と主イエスを誇り、神の国に入りましょう。

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