「いのちとは」(マルコ8章27〜38節) ( 2.12/2012 ) |
「それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。』」(34節) 今日2月12日は、洗礼は受けておられませんでしたが、一人の病を負いつつ主イエスを信じた方がお亡くなりになった日です。ペテロやパウロの立場に立つならば、公に信仰告白せず亡くなられた場合その救いを疑われてしまうかもしれません。けれども主イエスを見つめる時に、彼は「十字架を負って」イエスに従う方に、救い(いのち)を約束しています。 主イエスの十字架予告がされている御言葉の箇所ですけれども、イエスはユダヤ教の教えに対立したゆえに自らの死を予知します。31 節に「必ず(デイ)」とありますが、「デイ」というギリシャ語は、神の必然性を表わす言葉です。この世に神の支配、愛の支配を来たらせるためには、誰かがこの苦しみを背負わねばならない。それは、「必ずそうあらねばならないもの」として神が定められた道。この道は避けることができない。そして、誰かがこの苦しみを背負うべきであるならば、それは自分(イエス)でなければならないと言われました。 けれどもペテロはイエスをいさめたと記されています。だから、ペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスをいさめ始めた時、主は強い言葉でペトロを「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている(8:33)」と叱責します。 自分の十字架を背負うとは、「頑張って私について来なさい」という程度のことではありません。イエスは、この世で蔑視され、虐げられている最も小さい人々を大切にされた。たとえ自分が「罪人」の汚名を着せられることになっても、彼らの人としての「命の尊厳」を擁護された。そのイエスのように生きるとき、初めて神と神の恵みを知る、とマルコ福音書は伝えます。 愛するために自分を捨てる。それは私たちにとって痛み、不利益、重荷です。けれども、それは「愛のための重荷」です。だからこそイエスの十字架の死は尊い。その深みに触れれば、私たちの心は今まで知らなかった喜びと救いに満たされます。そして、それが私たちの背負うべき「自分の十字架」です。 自分の十字架を負えるかどうか、また神の国を信じ、神の国に恥じない生活ができるかどうか。神はそのように懸命に生きる人に、命をお与えになるのでしょう。イエスに倣い、精一杯生きる、そこに十字架を恥としない復活者・主イエスがおられます。 |
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