「愛を紡ぐ祈り」(マルコによ福音書9章14〜29節) ( 3.4/2012 )
「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。(29節)

8章34節の「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」を通し、どんなに辛い出来事でも避けないで真っ正面から受け止めていく所に、命があると学んで参りましたけれども、更に聖書から分かったことは、自分を生かそうとしてきたことが、かえって自分の命を失っている原因であったということであります。

今週は自分を生かすことをあきらめきれない弟子達と父親が登場致します。手のつけられない息子の救いを願って弟子達に嘆願しても、かなわず、主イエスにその治療を願い出たというのがこのところのストーリーであります。

父親とイエスの対話は、一体信仰とは何なのかということについて、私たちに鋭く示しています。父親は、イエス対して、幼い時からの息子の病状を説明したのち、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願っています。それに対して、イエスは父親に「『できれば』と言うのか」と叱責しながら叱り、信じる者には何でもできる」と答えています。すると、すぐに父親は叫んで、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と言ったというのです。その後、イエスは子供から悪霊を追いします。

この問答では、父親は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」とイエスに願いました。この父親の言葉には、「できないかもしれないが、もしおできになるなら」という信頼感の欠如がみられます。「『できれば』と言うのか。信じる者には何でもできる」とイエスは答えました。すると、父親は、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫びます。出来れば重荷から解放されたいと願う父親の言葉は、信じられない自分を助けてくださいに変化します。自尊心や生活を支えるものの喪失を恐れ、そうした自分を捨て切れない父親が、自分を捨て、信仰を持てないので助けてくださいと告白します。その父親の言葉を聞き。イエスは霊に命じて息子を救ったとあります。

また、イエスの奇跡が行われる前、弟子たちには霊を追い出すことができませんでした。弟子たちからどうして霊を追い出すことができなかったのかとイエスに問います。それに対して、イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われました。ここには、弟子たちへのイエスの教育的な配慮が示されているようです。

祈りは、一言で言えば愛の発露です。一人の人のために祈ることは、その人を心から愛することです。その愛は、愛する人に、イエスにおける神の愛の出来事を思い起させます。祈りの対象となった父親と息子は、何ものによっても引き離すことのできない神の愛の中に包まれている自分を発見し、恐れないで生きる人になって行く、祈りとはそうしたものなのだと弟子たちに教えているのではないでしょうか?

「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従ってきなさい」というイエスの招きに従う者は、祈る者でなければならないと、聖書は弟子たちの失敗を通して語りかけています。わたくしたちも信仰をもてない人のひとりかもしれません。けれども「信仰が無いのです、愛することができないのです、愛したいのです」と祈ることはできます。自分を捨て、愛を頂く為に祈りによって神に従いましょう。

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