「塩味を失わない」(マルコ9章30〜50節) ( 3.19/2012 )
「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」(37節)

私達は誰かに依存し、誰かを信頼する事によって自立していきます。それを忘れて子供を遠ざけようとした弟子たちを、イエスは叱ります。「幼子のようになれ」と言われたのは、大人に対して。自分の知性を頼りに、自分ひとりの力で生きていかなくてはならないと、肩を怒らして生きて行こうとする私達に、幼子が両親を信頼して生きているように、神を信頼して生きなさいと言います。

「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事とくすしきわざとに関係いたしません。かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです(詩編131篇)」

この「乳離れしたみどりご」とは、ある程度成長し、母親の愛というものをしっかりと知り、母親を信頼している幼子。お腹がすいたと言って泣くだけの赤子ではなく、乳離れした幼子。神を信頼するという事は、すっかり委ねきって生きる、自分の事を主張して我を通すのではなく、幼子が母親を信頼するようなあり方が大切。その時、私達はおごらず、謙遜になれる。また知性を放棄し、自分の生き方に無責任になり幼児的に甘えるのではなく、自分の人生に責任を持ち自立している者、同時に自分の限界を知り、自分の至らなさを悟り、自分を支えてくださる神に信頼する、これが幼子のようになる事でしょう。

続いて、水を恵んでくれた人々について、恵みから漏れることは無いと告げます。どんなに小さな存在であっても躓かせてはならない。イエスに従う弟子・指導者は、しもべの気持ち、仕える姿勢でなければならない。もしそうでなければ、こうした小さな存在をも躓かせてしまい、もはや命に値しないと厳しく教えます。

そして塩の話になります。塩は防腐効果があり、また浄めにも使われます。火によって「塩味をつけられる」というのは、火が人を浄め、神に受け入れられる者にするという意味です。ここでは、聖霊を指す象徴が「火」から「塩」に移っています。自分自身の内に塩を持つとは、つねに聖霊の導きに従い、内に聖霊を宿しつづける事。互いに平和に過ごすとは、交わりの中に聖霊を内に保ちつつ、助けあう生き方です。私達も塩味を失わないようにしましょう。

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