「夫婦とは」(マルコ10章1〜12節) ( 3.25/2012 ) |
『それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである』。(7〜8節) 厚生労働省が平成23年1月1日に発表した平成22年婚姻件数は推計70万6千組、離婚件数は推定25万1千組です。人口1000人当たり婚姻数は年間5.6組、離婚数は2組です。離婚は身近な問題です。旧約聖書申命記24章1節には「人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。」と記されていますが、主イエスはこのユダヤ教の教えを否定し新しい方向を示しました。 すなわち、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。」(マルコ10章5節)と語り、モーセ律法は人間の心のかたくなさに合わせて人間的に作られた定めであって、本来の神の定めではない。むしろより根元的な神の定めは結婚という事柄の中にこそあるというのです。 しかし、離婚の原因を見ます時に結婚生活を続けることが困難な場合もあることを感じます。また12節に「また妻が夫と別れて他の男に嫁ぐならば」とありますが、少数ではあったと思いますが、夫からでなく妻から離婚を願い出ることも当時からあったことが伺えます。では、結婚とは本来どのようなものなのでしょうか。 「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。(マルコ10章5〜9節)」ここに記されているのは、神が命じた人と結婚せよというのではなく、人間生活の有り様です。すなわち結婚生活をよく考えて相手を選ばなければならないということだと思います。すなわち人間には間違えもあるということであり、主イエスは悲惨な結婚生活の忍従を命じられたというのでもないと思います。だからこそ結婚前に一時的な感情の高まりでなく、良く考えなければならないのです。 では、「神が合わせられたもの」とあります。これはどういう意味なのでしょうか。創世記2章20〜22節に「それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。」すなわち、共に生きるということは自分を他者に与える覚悟がないと成り立たないと言うことです。つまり夫婦は隣人愛の最も身近な例です。 離婚を許可したモーセ律法は現実的な教えのように感じます。わたくしたちのかかえている弱さを浮き彫りにしていると思います。しかし支え合い、助け合い、共に生きる人間こそが神の祝福された生を生きるのだという神の招きを主イエスは語りマルコはこれを伝えたのではないでしょうか。愛し愛されるという関係の中で、多くゆるされ愛された者は多く愛することができるのです(ルカ7章36〜48節)。「人がひとりでいるのは良くない(創世記2章18節)」は裁く言葉ではなく、ある時は弱さも担う、共に生きる豊かさへの招きの言葉なのではないでしょうか。 |
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