「幼な子とは」(マルコ10章13〜16節) ( 4.1/2012 ) |
『人々が幼な子らをみもとに連れてきた』。(13節) 子どもほどこの世の中で受け身の存在はいません。親が避難してくれなければ自らの意志で住む場所も選択できません。しかし神はその子どもたちのために親を与えて下さいました。それは子にできないことを親に委ねる為ではないでしょうか。 けれども、今、親として立てられている方々も仕事のこと生活のこと等、将来の不安から新しい生活を始められない方もおられると思います。どうして小さな命よりも自分の命を尊んでしまうのか、神の前に出なければならないのは親たちです。けれどもそのような弱さを知り謙虚に認め、利己的で愛の足りない者を赦し受け入れ共に歩んでくださる神を信じて、自らの責任において決断をし、新しくされて歩き出し神の前に立ち続けるのが信仰です。神様任せで、祈り時間を浪費することを信仰とは言いません。 わたくしたちの恐れはどこにあるのでしょうか。なぜ改善できないのでしょうか。どうして神への信頼に、そして隣人理解について成長できないのでしょうか。そして隣人の為に重荷を負えないのでしょうか。それは相談相手(親)を失ってしまっているからかもしれません。 感受性豊かな幼な子だけでなく、私どもも自分の実像を見つめ、ある時は落ち込むでしょう。けれどもどんな所からでも引き上げてくださる神がおられます。わたくしたちは神が共におられることを奪い得ない平安として持ち得るのです。大人は一人で立派な隣人愛ができるでしょう。けれども神の国に生きる者は、子どものように神が共にいて下さることを確認しつつ、全てを知ってくださっている方と共に弱さを認めた者として神の国の拡大の為に労するのです。 神の国は神の御支配によって拡大していきます。強い人が弱い人を支配する時代は終わり、神の御前に個々人が成長していくことによって神の慰めと愛が具現化し隣人の尊さを学ぶのです。最初は幼子で良いのです。真に幼子のようになれた時に大人への歩みが始まるのではないでしょうか。 |
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