「繋がる命」(ヨハネ12章25節) ( 4.8/2012 )
「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」ヨハネ12章25節

イースターおめでとうございます。イースターは主イエスの復活を祝う日です。震災の為に今後も多くの困難が続くと思いますが、主イエスの復活に至った経緯を学ばせて頂き、私どももイエスのような良い決心を頂き、前進して行きましょう。

さて、イエスはなぜ受難に向かわれたのでしょうか。この箇所は、間近に迫った自らの死を自覚し、その意味について語っています。確かに人間はいつか死にます。しかし彼はこう言うのです。「この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」。直前の24節には「一粒の麦が地に落ちて死ぬ・・・豊かに実を結ぶ」とあります。自らの死が「多くの実」になるとは何を意味するのでしょうか?種が地中で発芽する前に形を変えるのは、種がいったん死ぬという過程(ネクローシスは損傷などによる壊死、サナトスは一般的な死、しかしここはアポトーシス;多細胞生物がより良い状態を保つために積極的に引き起こされる死)があると見ているようです。そうして発芽し「多くの実」を結ぶ。多くの実とは、神の国を待望する者を表現しています。イエスは十字架刑で亡くなりますが、その結果、後にイエスを信じる者の共同体が生まれました。イエスの死という瞬間(神の配剤)、それは彼の死から命を受ける後の人々の命の誕生の瞬間でした。

私たちは身近な方の死に接するとショックを受けます。「なぜ?」と問います。告別式では、「神は深い御旨により、この人を御許に召された」と祈ります。故人との別れを通し、故人が私たちに多くの良い事を残してくださった事に感謝します。「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」ゆえに、私という存在は支えられ、今の私という存在が与えられたことへの深い感謝の思いとなって故人と今も結びついているからです。

この結びつきとは何なのでしょうか。
私たちは何のために生き、そして死ぬのかと問う以前に、既に個人的命を与えられています。そしてヨハネの伝えている主イエスは、この命をこの世における「命」(プシュケー)と「永遠の命」(ゾーエー)を使い分けています。プシュケーとは個人的命のこと、ゾーエーとは命の質・永遠の命を表しています。個人的命に固執する者(自分だけはと言う意識)は、死に際して永遠の命を失うが、この世で自分の個人的命を最優先しない者はかえってその命を保ち、最終的には神が与える命の質である永遠の命(ゾーエー)が開かれると。

他方、この世界には容易に納得しがたい死もあります。交通事故や火災、病気、自然災害や人災、犯罪や戦争による死など。イエスの十字架の死も、そうした容易に納得しがたい悲惨な死の一つでした。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マルコ15章34節)」という叫びも、私たちが感じる納得しがたい感情の叫びです。しかし、イエスの心に示されていたのは、多くの実を結ぶために彼自身が困難を甘受しなければならないという事でした。そして、十字架と葬りの出来事が起こり、3日目に復活が訪れます。神がイエスに備えられたのは、苦難を経て初めて栄光に至る道であり、同時に多くの人が実を結ぶ準備と愛の道でした。

神の支配を信じつつ、彼からの苦しみを甘受する事で自分の命を保って永遠の命に至る、と主イエスご自身が証しされました。私たちはそれぞれに与えられた個別的な命がイエスの死によって与えられた「実り」であることを受け止めつつ彼から繋がっている神が与えた永遠の命に向けて前進して行こうではありませんか。それはもはや損得でも個人的な苦しみでもなく、彼との命の関係であり、今芽生える隣人を思い生かす「実り」を約束されている繋がり(命のある自己意識、永遠の命)なのですから。悲痛な叫びや悲しみもあります。しかし命は繋がっているのです。繋げていけるのです。

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