「らくだではなく」(マルコ10章17〜31節) ( 4.15/2012 )
「富んでいる者が神の国にはいるよりは、ラクダが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」(25節)

恩師が銭形平次の著者である野村胡堂の話を教えてくださいました。彼は3人の子どもを失いながら80年の人生を全うしたというのです。子や夫、そして妻を失っても生き続けなければならないというのは非常に酷な話です。しかし、そのような苦しみを生き抜いた先人たちがおられることを知る時に強い励ましを受けます。

今日は親や兄弟を捨ててイエスに従った弟子たちも驚いた富める者の話です。「富める者が神の国に入るよりはラクダが針の穴を通る方が易しい」というというお話です。親や家族は諦めることが出来た弟子たちがお金のこととなると諦めがつかなかったのでしょうか。そうではないようです。富を持つことは神の祝福であったと彼らが信じていたので納得できなかったのでしょう。

弟子たちはやがてエルサレムに向かうイエスを見ることになります。受難の道が潜んでいるところに向かう師、彼と同行することになるのです。この時、彼らの心には不安がよぎったと思います。親も捨て親族との関係も捨ててイエスに従った彼らの将来が危うくなることを感じたのではないでしょうか。何々クラブという政治家の勉強会に参加する人は何かしらの野望を抱く方でしょう。多額の犠牲を払っても成し遂げたい目的を持っておられるのです。しかし、主イエスの場合は富める方でも入ることができないという神の国を証しするためにエルサレムに向かいます。

富める青年も弟子たちと同様に、イエスに神の国を求めたので彼に近づきました。しかし、富を捨てることを勧められると断念してしまいました。主イエスは、どうしてこのような困難な要求をされたのでしょうか。それは恐らく、命が富よりも尊いことを教えようとしたのだと思われます。一方、青年は富のためには他の何かを失うことは恐れなかった。けれども、主イエスの知っていた神の国は、青年その人の命であり、富よりも大切なものだったのです。

マルコの資料にでてくる青年はイエスの元を去っていきました。神の国は律法をすべて遵守しても得られるものではなかったのです。神の国とは逆に何も持たない者が、神から命を受けるものでした。この世で尊い方を失っても、失った方のために出来ることは神に信頼することのみです。大きなお墓も良いかもしれませんが、墓を建てるお金が無くても神に信頼することは出来ます。今日私たちに迫られているのは、お金で神の国は買えないということです。そして神に信頼することのみしか為し得ない無力な自分として、神の御前に立つことではないでしょうか。神は、「らくだ」が針の穴は通れないと思って立ちつくす人々を、そうではないと慈しんでくださる方です。立ち上がる力を頂き、神が与えてくだった財を有効活用し、活かされて進みましょう。やがて自分も家族も、神にすべてをお任せ出来る時が来ます。そして神をへの全く信が実感できた時、余った財を困っている方々に使っていただきましょう。神の国は神を100%信頼出来る世界、隣人を愛し、喜びを持って互いを尊敬する世界。神の国に向かって共に歩み出しましょう。

「先の者はあとになり、あとの者は先になる」のイエスの本意は、律法にこだわり、人を差別する者は後になる、先に入る者(被差別者)が神の国を占有するので、入るのは極めて難しい(入れるかどうかはその人の回心次第)、故に福音を受け入れなさいという意味です。回心とは、正確に言えば、人間の生、存在、価値観の全的方向転換です。神の国すなわち主イエスの福音とは、人間の生き方を細部まで制限する律法・「らくだ」ではなく、神から授かった福音と、神を信じる良心に生きることなのではないでしょうか。そうすれば、針の穴でさえ容易に通る抜けることができます。

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