「備えるかた」(マルコ10章32〜52節) ( 4.22/2012 )
「しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである。」(40節)

前週では、富者の青年が富を捨てる事が出来ませんでした。しかし、主イエスは「人にはできないが、神にはできる」(27節)と語ります。私達は、青年のようにしばしば行き詰まりますが、人間自身が自分だけでは出来ないと思う事も、神への信があれば、神の力が働けば可能になる言います。

ガリラヤからヨルダン川沿いに南下し、いよいよエリコやエルサレムに進もうとされている所で、マルコはイエスが先頭に立って進まれ、弟子たちも驚いたと記しています。そして受難予告(32〜34節)、ヤコブとヨハネの嘆願(35〜40節)、弟子たちの怒り(41節)、仕えることの教え(42〜45節)、バルテマイの癒し(46〜52節)と続きます。ヤコブとヨハネの嘆願では、彼らがイエスの左右に座る(大臣になる)特権を求めた時、「わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」(40節)、すなわち備える方(天の父)がおられるのだと語ります。

では、一体どのようにして備えられるのでしょうか。バルテマイは目が見えず物乞いをしていましたが、イエスに必死の嘆願をし、イエスを通し神により目を開かせて頂きました。そしてイエスに従います。何も持たない者が、自分に必要な事を必死に神に求めた、こうした者が備えられている人なのでしょう。ヤコブとヨハネ兄弟のように、自らの欲で必要のないものを求める者は、備えられていない者だ、とイエスから叱責されています。イエスの行き先・エルサレムは、実は苦難の道でした。備えられている側のイエスも、覚悟しなければならない事は大変な苦しみも受け取る事でした。イエスの今この時、必要とされているは、苦難のバプテスマを受ける覚悟だ、とマルコはこの箇所で皆に伝えます。

主イエスは「多くの人のあがない(ギリシャ語では身代金)となる」(45節)と記されています。悪の勢力(神の国の実現を力で阻止する者)から多くの人を救うために、自身が身代金となると宣言しておられます。これを成就するためには、大変な苦難の道が備えられていたのです。しかしそれによって、その苦難の道はもう私達が通らなくても良い道にされたのです。ですから私達には、異なった備えられた道があります。備える方・約束される神がおられるのですから、備えられた道を通り、「備えられている人」つまり神の国の住人になろうではありませんか。神の国は大臣などいない、神が支配する自由で平等な救いの国なのですから。

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