「祈りの家」(マルコ 11章12〜26節) ( 5.13/2012 ) |
中心聖句 そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。(17節) このイチジクへの呪いと宮きよめそしてイチジクが枯れた事件は、イチジク事件が神殿事件を挟むサンドイッチの構造になっていますので宮きよめが強調されています。 イザヤ書56章の中で、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という言葉が引用されています。この言葉が語ろうとしているポイントは二つ、すなわち神殿とはすべての人に開かれた場所、神殿とは祈りの家である、と言う点です。マルコはマタイやルカと違って異邦人にも開かれた祈りの場であることを伝えています。更に一部の特権階級の人々のためのものでもない。すべての人が神と向かい合い、神に捧げものをする場所であり、いかなる人間も金儲けをする場所ではない。祈りをする場所なのです。しかし商取引だけでなく祭壇で犠牲を献げる宗教祭儀をも含めてイエスは拒絶しています。ヨハネ2:17「弟子たちは『あなたの家に対する熱心がわたしを食い尽くす』と書いてあることを思い出した」、詩篇69:8-10「神殿に対する熱情がわたしを食い尽くすので、あなたへの嘲りが、わたしの上にも嘲りとなってふりかかっている」、ホセア6:6「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」とある通りです(マタイ12:7 、マルコ12:31-34も参照)。 この事件は4つの福音書すべて記されていて、しかもこのことがイエスが十字架刑になる直接的原因とされているので、歴史的事実です。イエスのデモンストレーションに至った根拠として、ヨハネを除く共観福音書はすべてイザヤ書の56章7節をあげています。イエスの目には当時の神殿が「強盗の巣」に見えたのです。しかし本当に神殿が神殿としての本来の姿を回復すれば、イエスは目的を達成したことになるのでしょうか。むしろこの行動は、過去に預言者達が行ったデモンストレーションに通じると思われます。その後、物語は意外な展開をします。この出来事の後、神殿当局者たちはイエスの殺害の謀議を行いながら、表立ってイエスに対して手出しができません。その理由として民衆を「恐れている」(11:18,32、12:12)という点が強調されています。 当時、ユダヤ人たちにとって権力の集中であった神殿当局者たちは、表面的にイエスに対して手出しができません。つまり、もうすでに神殿の権威は崩壊してしまっているということになります。参拝者も驚かす輝く神殿も、その堅固な石垣も宗教的権威を失った金儲けの材料になっていたのです。更に13章で、イエスは神殿崩壊の預言を行います。この言葉は、後に逮捕後の尋問での証言として引用されています。すなわち「わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建てて見せる(マルコ14:58)」。明らかに、これはイエスの許に集まる貧しい者、差別を受けている者、イエスを信じる者達の共同体を語った言葉です。つまり、真の祈りの家は、エクレシア(共同体)とコイノニア(共同体の交わり)において回復される。あの豪壮なエルサレムの神殿は「祈りの家」ではないのです。世界の各地に散らばって、一見するとみすぼらしい姿で活動しているエクレシア(共同体)とコイノニア(共同体の交わり)こそが、イエスが予告した「祈りの家」なのです。教会とは本来、エクレシア(共同体)が発展した状態を言います。 エクレシア・教会の交わりにおいて、すべての尊厳が保たれ、痛みや悲しみが分かち合われる。この交わりに励まされた一人一人によって、その交わりが広く分かち合われていくことを願う・・・これこそがイエスの衣鉢を受け継ぐ事に他ならないのではないでしょうか。エルサレム神殿は実を結ばないために崩壊することとなりました。祈りが利己的となり、礼拝に利己的な目的が混ざってしまっていたことを認め、悔い改めなければなりません。悔い改めて、祈りと交わりを通し、痛みや悲しみを共有するための交わりを回復したいのです。共に主イエスの体を建て上げましょう。祈りの家から分かち合いの広がりを目指しましょう。 |
|
|