「御国に生きよう」(マタイ6章9〜15節) ( 5.27/2012 )
「もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」(15節)

わたくしは先日自分の心が治められませんでした。神に祈ると即座に「人の心はわたしが握っている」と神からの祈りの答えが示されました。偉大な牧師たちは涙しながら祈ると聞いておりましたけれどもわたくしは受け入れることができず少々暴れました。その後、十数時間祈り(自分の力ではどうにもならないことを受け入れて)やっと目を開けました。15節は大変難しい御言葉です。この聖書の言葉から問題の解決に神が関わっておられることを知ることができます。主の祈りと呼ばれる部分が今日の聖書の箇所です。主の祈りには私たちの霊性を整える大切な真理が含まれています。すなわち生活の中心が神でなければならないことを告白しています。すなわち全ての問題は人でなく神によって解決されるのです。なぜならバプテスマのヨハネの説教も主イエスの説教も神の国についての説教でした(マルコ1章14〜15節、マタイ6章33節)。どうしてこのメッセージが語られ私たちも日々葛藤するのでしょうか。エデンの園は神の国の模型でしたが罪を犯して以来、聖霊が下って教会ができるまでの間、人類には苦しみが重なりました。すなわち完全な生活ができるなら誰も苦しみません。けれどもそれができないからです。しかし問題が起こるから祈らなければならないのではないでしょうか。これまで薬によっても食料でも神の国を作ることはできませんでした。神の国を形作る御国の民がいないからです。しかし、主イエスが来られ神の支配の及ぶ世界が生まれ始めています。神の国とは目に見える領域ではなく、各人の心の中にあります(ルカ17章20〜21節)。曖昧なものではなくわたくしたちが神の支配に入ったならそこに神の国が始まるのです。

神を知らなかった時は神が無力に感じられ不信を抱きます。しかし平和は神に依ります。問題は自分自身が神の支配を拒むところにあります。創世記にはバベルの塔が建たなくなった経緯が記されています(創世記11章)。幸せへの過信です。けれども新約聖書には主イエスが語った放蕩息子の話があります(ルカ15章)。すなわち心を置くべき場所は神の下です。家庭でも妻に支配されたくない、または夫に支配されたくない、子どもも親に支配されたくないという思いからドラマが生まれます。お金でも解決できません。救われる信仰は相手が屈服することではありません。神の前に自分自身が屈服する信仰です。目に見える不幸な現実を神の力を借りずに自分が怒れば解決できると考えることは間違っていました。決定権は権威者が持っているのです。すなわちそれは神です。いくら良い心を持って教会で熱心に奉仕活動をしても、神の権威の下に生活していないと直ぐに問題が起こります。自分の国は決して作れないからです(ただ神が良い方であられることを信頼する必要があります)。全員が一緒に本当の主権者を主権者とすることも不可能ではないでしょうか。思いを起こされた人から順に本物の主権者に信頼し始めるのです。自分の主権で奥さんを変えようとすると戦いが絶えません。しかし私たちの姿に神を見てもらえたなら、奥さんもきっと光を見ることが出来ます(わたしも変われるかもしれない)と。

幼い子どもも自我を通し始めると喧嘩を始めます。ペテロは祭司長のしもべに斬りかかって耳を切り落としましたが、主イエスは神のみこころにしたがって捕縛されました。主イエスには神の支配の中に生きるための祈りがありました(ルカ22章40〜54節)。自分の願いが生きている間は神の国を体験することはできません。願いを取り下げて神に信頼するために祈りの時間が必要です。独裁者は悲痛な視線を必ず浴びます。けれども独裁者がそれに気付いて悔い改め神を神とするなら、独裁者の不安は神によって解決されます。神の御前にそれぞれがいかに歩むべきか、価値観がぶつかることがあります。そして裁きあってしまうこともあるでしょう。けれども主イエスが教えてくださった生活は恐らくどんなに迫害されても弱い人に出会っても傲慢にならず赦すことを決め込んで生活することでした。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。」(Tヨハネ4章18節)。裁き散らす人々の価値観に呑み込まれてはいけません。真の神に繋がって生活しましょう。

30年ほど前、ヤングクリスマスという集会に出席させて頂きました。オープニングは「ハッピネスは幸せのこと、主イエスを知った時、心の悩み消えハッピネス笑い顔、幸せ奪うものはないイエス様が心にあるからさ」という歌でした。主イエスは人を裁き恨む生涯しか知らない人々に新しい生き方を見せて下さいました。それは赦す生涯でした。日本で最初の迫害として記録されているのは長崎で行われた26人の宣教師や信徒の処刑でした。十字架に縛られた日本人の伝道師が槍で心臓を刺し貫かれる前に、「主イエスに倣って秀吉大王と処刑者の全てを許す」と叫んだ声が港に停泊していた船にまで聞こえたそうです。生き方が変わることそれがペンテコステではないでしょうか。

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