「神の農園」(マルコ12章1〜12節) ( 6.3/2012 )
「季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。」(2節)

先週はマタイによる福音書から「赦す」ことを学びました。本日はマルコによる福音書の12章から「神の農園」について学びたいと思います。つい最近ですが畑で苗を植えておられるご近所の方とお話ししておりました時に「これだから、楽しいんだよね」とおっしゃいました。恐らく苗を育てるまでの数週間にもその方は神の恵みを体験しておられたのです。今日お読み頂きました葡萄園と農夫の譬え話は共観福音書全てに記されています。そしてトマスの福音書にもその記事は記されています。共観福音書に共通しているのは前半が主イエスが語られた内容であり、後半は聖書記者がその問いに答える内容となっている点です。時代順に並べますとトマス、マルコ、マタイ、ルカによる福音書となります。前半部分の内容は一番古いトマス福音書と共観福音書には共通点がありますが、ただトマス福音書は「聞く耳のある者は聞くがよい」という戒めかと思えるほど強い語調で終わっており、一方共感福音書は「どうするだろうか」という問いかけで終わっている点は異なっています。後半部分は共観福音書にのみ記述があり、詩篇118篇22〜23節を引用しつつ神の国を力ずくで奪おうとするエルサレムの宗教指導者と権力者に主イエスが謀殺されることを暗示しています。そして指導者たちに神の国は相続されず、それ以外の者に与えられるであろうと解釈しています。

この譬え話の登場人物が誰を指しているかですが、ある人とは神を、葡萄園はイスラエルを、但し新約聖書では神の国を、僕とは預言者たちを(列王記上19章1〜3節、歴代誌下24章36節、ネヘミヤ書9章26節)、耕作人とはイスラエルの指導者と支配者を、他の者とはマルコではイスラエルの指導者と支配者以外を、実を結ぶ民族(マタイ)とはマタイはこれを単数形で書いておりパウロのようにユダヤ人から異邦人へという発想はありません。むしろ新しいイスラエルとしての共同体を指しています。

そしてこの譬え話で難しい点は、農夫たちが主人に作物の分け前を与えない点です。イザヤ書5章にも似た状況が記されていますが、「ぶどう畑の愛の歌」というくだりなのですが、新共同訳で「良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」(2節)、「裁きを待っておられたのに、見よ、流血。正義を待っておられたのに、見よ。叫喚」(7節)。これが農夫たちが喜んで働けない理由であったのではないでしょうか。当時、ガリラヤ地方の農村では、エルサレムその他の都市の貴族や大金持ちたち、更に外国人たちが侵入し、勝手に囲い込みをし、大部分の農地を占拠し、本来の農夫たちを賃金労働者として雇い入れていました。雇用者は収穫期になると雇い人を派遣して収穫物を回収していました。雇用者たちは農民たちの取り分を極力抑えました。昔からそこに住み、荒野を耕し、農業を営んできた農民たちは突然自分たちの農地が自分たちのものでなくなり、自分たちの収穫が他人のものとなってしまっていたのです。ですから収穫物のみならず土地も取りもどしたいという基本的な要求がありました。しかし、イザヤ書には神の視点があり、愛の歌として読まれるほどに愛が実ることを期待された土地でした。けれどもぶどうの木であるに神の望まぬ酸っぱいぶどう(不正・苦しみ)が実ったこと、恐らく原因は土地を独占した人々、豪勢な生活を送り、人権を軽んじ、傲慢になって裁きを信じないで正義感覚を失ったことを「酸っぱいぶどう」表現し指摘しています。

ですから、主イエスの時代の人々がこの譬え話を聞いたとしたら、後半部分を聞いて人々は恐らく心を閉ざしたでしょう(マルコ12章9節)。主イエスの譬え話の本意は何であったのでしょうか。
トマスの福音書にはぶどう園の所有者は「善人」と記されています。すなわち明確に神が示唆されています(マタイ19章17節参照)。そして農夫たちに貸して行かれたのです。すなわち神からの負債です。「仲間を赦さない家来の譬え」(マタイ18章21〜35節)からも分かりますように、私たち人間は神から負債を負っています。自分が暮らせる以上の更に莫大な富を所有している場合、それは神にそれだけ大きな恩恵(負債)を負っていることになります。「ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。(2節)」は仲間を赦さない家来の譬えを通して考えますと、それは私たちは神に膨大な負債を赦されている、それは神に返済する必要は無いのですが返さなくて良いということではなく、恩恵には感謝を表すものであると教えています。神に返す方法が無いのですから同じ神が生と死を与えた仲間で困窮したものに与えるべきという意味です。

主イエスの本意は神の国は宗教指導者や支配者たちの暴力で奪えるものではない。貧しい者、阻害された者、悲しんでいる者たちに与えられるものであるということです。更に、罪深い者にも与えられるでしょう。しかし、その為には罪を赦し神の御心を証しする人とそのことを理解できる仲間が必要です。私たちの人生は指導者たちに倣えば自分の人生で終わってしまいます。しかし主イエスに倣うなら、私たちの人生を神のものとして生きることができます。彼は貧しい者に本当の希望を与えるために自分の命に代えても神の国の到来を告げました。神は神を愛し隣人を愛して人間同士で共存することを望んでいてくださるのではないでしょうか。生も死も神からの賜物ですから神が共感し受け止め理解してくださいます。

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