「神のものは」(マルコ12章13〜17節) ( 6.10/2012 )
「するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。」。(17節)

この税金問答は主イエスが、サンヘドリン(最高議会。祭司、神殿貴族、律法学者、ファリサイ派、民の長老などの代表から構成)のメンバーでもあるパリサイ人たちにも話された問いかけです。我々が得るものは本来すべて神に負っていますので、税金は本来神にお返すすべきものですが、それは現実にはできないので国家や神殿に納税します。その納税を国家が正しく使われなければならないのですが、果たしてそうなっているでしょうか?富める者ほど多く納税し、逆に貧しい者はその税金から生きていくのに最低限必要なものが与えられるように、また個人ではできない事を国家が代わって行わなければなりません。同時に本来神のものであるはずの神殿税や民衆が捧げるささげもので生活している神殿貴族たちは、民衆に納税の義務と言うのならば、彼等の神に対する義務も果たさなければなりません。義務には義務で答えなければ、それは収奪に過ぎなくなり、神殿が盗人の巣になっているとは、そういう事を意味します。

ここにパリサイ派とヘロデ派という人々が登場しています。彼らはユダヤ教の宗教教義や定説を信じそれを前提にしている人々です。彼らはイエスに最高のおだて文句を語っていますが「言葉じりを捕らえようとした」とあるように、言葉でもってイエスをやっつけようとしています。この問答の舞台はエルサレムで周囲のユダヤ人たちは確実にローマの直接の支配下にありました(人頭税とは紀元6年にキレニウスがその徴税のために住民登録を行って以来、反ローマ感情の原因となり、66年以降の第一次ユダヤ独立戦争へと続きました)。デナリ貨幣とはアサリオン銅貨の10倍の価値のある銀貨で、中央部にはカイザルの肖像、そしてその周りには「神聖なアウグストゥスの子で自らアウグストゥスたるティベリウス・カエサル」と刻んでありました。イエスはローマ支配という時代の苦しみの中に生きる人々に、神殿の経済搾取構造に対して、神を忘れている宗教指導者達を批判しています。

「神のものを神にささげる」とは、宗教的責務を全うすることではなく、隣人を助けることではないかと問うた先人達がいます。賀川豊彦は贖罪信仰を単に個人的救済の事柄とするのではなく、「贖罪愛の実践」を繰り返し語りました。実践を伴わない「講壇キリスト教」を批判し、教会に愛が無いことをしばしば厳しく指摘しました。またマタイ25章37〜40節のイエスの譬えから、実際は宗教的でなく、反って『非宗教的』と考えられている、弱者貧民を労り、前科者、行き倒れに衣食住を与え、世人の憐れみの目からも漏れたような窮民の為に小さい情をかける。それが本当の意味で宗教的生活と称すべきものであるというのです。他に、近江兄弟社のW.M.ヴォーリズは、神それ自身が神の宮である、各自の日夜住む住宅を完全にする方が、はるかに急務ではあるまいかと問い、ごく平凡と見える、俗物の俗事業と考へられる事に従事するものが、反って神の国の後継となると理解しています。周囲の人々へ愛の働きを仕掛けて行くこと、これが大きな神を発見する糸口であるというのです。

シュヴァイツァーも「神の国とキリスト教」で「自ら到来する神の国に対する信仰をうしろに捨て、実現すべき神の国の信仰に身をささげることが、キリスト教界に課せられている」と言っています。先の賀川もまた、「善きサマリヤ人の親切のように、これからの神の国運動は、農村に、役場に、街に、工場に、我々が無言の十字架を背負って帰って行くことである。我々はこの愛の運動にもう一度帰らねばならぬ」と、そして困難な環境に身を置き「貧しい人々と一緒に面白く慰め合って行きたいと思ふのである。之は必ずしも慈善ではない。善き隣人運動の小さい糸口である。必ずしも大きな事業ではない。人格と人格との接触をより多く増す運動である。これは金でも出来ないし、会館でも出来ない。志と真実とで出来るのである…私の処へ来れば、慈善家から受くる親切とちがった、友人として相談が出来ると云ふことをよく知ってくれた。それで凡ての相談を持って来てくれる。それは友人としての相互扶助である。この後も、私は貧しき人々の愛の中に生きたいと祈っている」と述べています。

賀川から学べることは、聖貧とは神と隣人のためにおのれのタレントを献げる愛の実践であり、自然主義的な「清貧」の生き方とは区別されなければならないものでした。禅僧に共感しつつも、「あまりに遁世的にかたむき、進取と、冒険と、自由の空気に欠ける」ことには反対しました。与謝野晶子は彼が神戸で生活した時に訪ね、社会的に困難な生活をしている方々が彼に対して美しい人間性を見せて居るところを見て、「それがどうして虚偽であろう。紳士や紳商の交換する笑顔の方がどれだけ醜いものであるか知れないと思ひました」と言っています。

私たちの人生の不一致や衝突、悲しみ苦しみも、敢えて負って下さる神、このお方とこの現実のゆえに「神への愛と隣人への愛」という私たちの応答が求められています。「神のもの」とはわたくしたちの人生も含まれるのです。

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