「復活信仰−だから諦めないで」(マルコ12章18〜27節) ( 6.17/2012 )
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。(27節)

ここはサドカイ派との「死者の復活」についての問答です。彼らは、イエスがパリサイ派(パリサイ派は死後の世界と死者の復活を信じていた)の様な復活思想を持っているかどうか、つまり敵対者である事を確認し、難題を吹っかけ、何らかの失言を望んでいたのでしょう。すなわち大祭司などのサドカイ派は、モーセ五書のみを律法として認めており、そこに記されていない天使、復活、終末思想などを否定し、ただ神殿で礼拝する事とそこで生贄を捧げることを最も大切にしていました。サドカイ派が復活を認めていなかったことは、ヨセフスのユダヤ戦記にも書かれています。
この問答の背後にはレビラート婚(申命記25章)があり、7人の兄弟の妻になった女性がいた場合、もし復活があるのなら、復活の時に彼女は一体誰の妻になるのかと言うものでした。イエスはそれには答えず、逆に聖書も神の力も知っていないのかと叱ります。真の復活とは困難な中に神が共に生きて下さっていることを知ることではないでしょうか。こうしたマルコの復活観はパウロの復活観と異なっています。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とはその人と共に生きておられる神と出会うこと。復活の顕現を書かなかったマルコは、イエスの復活もこのような復活を意味していると言っているのかも知れません。

死者の生前そのままの復活を信じるパリサイ派、死の現実から新たな命を見出すイエス、そして死に絶望するサドカイ派と3つの考え方があるようです。問題点はサドカイ派の現実肯定的な在り方がどこから出てきているのか?イエスの「あなたがたは非常な思い違いをしている」とは、「死人の復活」を否定するサドカイ派が「死は変えられない現実」として受け入れてしまっていること。一方パリサイ派の復活に対しても、死後にはもはや娶ったり嫁いだりすることはない、死者の復活はこの世と己との関係を延長するのではなく、それは天使のようだと言います。死がすべての人を襲い、その中では確かに人間は「死んだ状態」にあります。一方、生ける者の神とは、イエスを死からよみがえらせた神、死の現実に抗って私達を生かす神なのです。現在の人生を往路としますと、復活は復路を生きると表現できます。肉体が死で終わるならば、復活信仰はその死からのよみがえりです。死という最後から、立ちあがらせてくれる命の力。失望し、絶望し、あきらめざるを得ない死の状態から、新たな光がさし、導かれていくとき、下の詩のように、希望を信じて生きることができます。神は人間の思いを超えて働くのです。

「病者の祈り」(ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁の祈りの詩)津屋 式子 訳

大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるようにと
健康を求めたのに
より良きことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった

求めたものは
一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた

私はあらゆる人の中で
もっとも豊かに祝福されたのだ

不安に満ちたこの社会、神に、イエスに、劇的に変えて下さいと祈り願うかも知れません。しかし主イエスは、そういう形ではなく、不安に満ちた社会の重荷を黙々と背負い、苦しむ人々と共に歩み、十字架の人となりました。このイエスの地上での歩みが神との出会いであり、死を命に変える復活そのものであることを見失ってはならないと思います。復路があることを忘れず、今の往路を力強く生きていこうではありませんか。

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