「神の国は遠くない」(マルコ12章28〜34節) ( 7.1/2012 )
「イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。」(34節)

教会は神の国を伝えようとしています。マタイ13章には、神の国はあるのだと主イエスは教えています。だから「求めなさい、そうすれば与えられます。捜しなさい、そうすれば見出します」と言うのです。そして、その神はすべての人の神であり分け隔てされない方ですから神の国は特定の人々の為の国ではないことがぶどう園の譬えで語られています。そして毒麦の譬えでパリサイ派やエッセネ派などを批判しています。パリサイ派とは、ファリサイという分かたれた者を意味する言葉に由来し、紀元前二世紀前半にユダヤ教のヘレニズム化(ギリシャ文化の影響を受けること)に抗議して作られた一般信徒の運動によって生まれたグループです。主イエスは、彼らが自らを残りの者として共同体を形成し結果としてそのグループから排斥された人々をすべて受け入れようとしました。「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9章13節)。すなわち、神の招きは大宴会の譬え話に表れているように断られても怯まずに招き続ける無条件で分け隔てしない招きです。失われたものが一匹であってもその一匹を分け隔てしないで99匹を置いて探し求め見つけて喜びます。それが神の国の喜びです。そしてその愛の源泉は神から受けた愛です。神から受けた愛を隣人への愛へと転化するように「仲間を赦さない家来の譬え」で教えています。
神の国を阻むもの、それは光と闇を区別することだと「不正な管理人」の譬えで教えているのではないでしょうか。徴税人(ルカ18章9節以下)もパリサイ人よりも神の前に出た時の姿は素直でした。彼の祈りは神との関係を紡ぐものであり、彼は主イエスに「神に義とされた」と言われました。タラントの譬えでも褒められたのは主人から預かったもので儲けたしもべでしたが、銀行に預けることもできない小心なしもべも登場させています。世の中の考えでは分け隔てしてしまうことをそうしないのが神の国です。

しかし、現実には社会を支配する構造はなかなか変わりません。マルクスはキリスト教世界が神の国を実現できないことに失望、批判し、人間自身の意識改革を行い、そこから派生する社会運動で世の中を変えようとしました。神の国は人間では実現できない、しかし人間が行動しなければ、これまた実現しない。人が動くところに神は働く・・・これをキリスト教、マルクス共にが理解しなかった事が問題ではないでしょうか。マルクスは神が歴史の背後で動く事を、どうしても肯定出来なかった事が、唯物史観に傾いた原因ではないでしょうか。

けれども、神はこの鷹巣に生きておられます。昨年放射性土壌の仮置き場の候補地を決める会議で、ある方が「あーそーだっけ」と言われました。それは、その候補地としてあげられた土地の隣がご自分の農地であるということについてそう言われたのです。そのことについて後日質問しますと、「そだっことばかり言ってたら話が進まないばい」とおっしゃいました。そして次の会議の時には年輩の方々で仮置き場の話を決めて来てくださいました。ある日、どうして難しい問題が直ぐに解決できるのか責任者の方に質問しました。すると、「ず〜と一緒なんだ、何でも知ってんだ、だから・・・みんなのために喜んでそれぞれが何かしてくれているんだ」と仰いました。また先日若い30〜40代の方も雨の中公民館の土手の草刈りをして下さっていました。
隣人を与え出会わせて下さったのは神です。その方々のために義務でなく主体的に喜んで何かできること、それが隣人と共に歩むことであり神と隣人を愛することなのだと教えられました。

今日の聖書の箇所で主イエスは、「神の国は遠くない」と言われました。隣人を御食事に招くこと、隣人のために何かできることをすること等、隣人になる行為に積極的に関わることが大切なのではないでしょうか。既に地域の先輩方の意識には良きサマリヤ人の譬えのように隣人のために自分の持っているものの一部を犠牲にする覚悟があることを教えられます。隣人を得る時に行為が後から付いてくることも多いでしょう。神が与えて下さった隣人と出会うことからはじめてみませんか。

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