「寡婦の隣人」(マルコ12章35〜40節) ( 7.8/2012 )
「また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。(40節)

以前ご奉仕させて頂いた教会でひとりの役員さんが「のりくん、それは危険ですから止めましょう」と力強くご指導とご助力を頂いたことがありました。その他にも「自分たちも力になりますからその問題を負った方が良いですよ」とご助力を申し出て頂いたこともありました。教職者の生活は教会の姿に影響する重大な問題です。牧師が気にすべきことは自分の服装でなく、隣人であるべきであることを教えられました。長袖を着た律法学者が今日の主人公です。

ルカ20章46から47節にはこう記してあります。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。マルコによる福音書の記述とよく似ております。ですから律法学者が長い衣を着て歩くことを好んでいたことは周知の事実であったようです。

神に仕える者のあるべき姿が問われているのがこの所の趣旨です。

1.律法理解は種々存在しても行為はひとつ

主イエスは長袖の着物が律法学者の語る教えを裏づけるのではなく、彼の行動が教えを裏づけるのだと言っておられます。そのために、まず律法学者の聖書理解を問うています。

 キリストは誰か

サムエル記下7章4〜13節で預言ナタンが神の言葉を預かってダビデに語った言葉、イザヤ9章6〜7節にはダビデの子を通して国を固く立て保つと預言されていますが、主イエスはダビデの言葉を引用して(詩篇110篇1節)、キリストはダビデの子ではなく、ダビデがキリストのことを「わが主」とよんでいるようにキリストはダビデの子よりも素晴らしいお方ではないのかと問い、民衆が喜んだと描写しています。

 キリストを表すのは誰か

律法学者の知りうるところは一部分です。けれども、彼らの仕事には大切なものがありました。それは3人法廷の民事裁判において裁判官になることでした。そして、その3人法廷で寡婦が不利な判決を受けているのは判事となっている律法学者の倫理観に起因しているのではないかと。良きサマリヤ人の譬え(ルカ10章)にレビ人と祭司が通りかかりますが、彼らには清浄規定があり事件に遭遇した日には罪が分からなかったのだと思います。ところが主イエスに「誰が隣り人になったと思うか」と問われた時、初めて彼らは正しい答えを得ました。

2.正しい行為とは

旧約聖書にルツという寡婦が出てまいります。モアブ人(ロトの娘の子孫、イスラエル人と犬猿の仲)でありましたが、彼女がいてくれたお陰でダビデ王が生まれました。その陰には、姑のナオミ、夫となったボアズ、そして彼女が再婚する時に彼女を祝福した門にいたすべての人たちと長老たちがいました。ダビデ王を誇るユダヤ人を支えているのはモアブ人でした。ルツの結婚を快く思わなかった方、理解できなかった方がおられたとしても、現代から歴史を眺めますと、神のどんでん返しがあるのです。

今は負いきれないと思える重荷がそれぞれに与えられていても、聖書は神の真実を証ししています。寡婦の立場にある方は神に覚えられています。彼女たちの隣人となりましょう。

TOP