「やもめが伝えたかったこと」(マルコ12章41〜44節) ( 7.24/2012 )
「みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」(44節)

主イエスの時代、ユダヤの通貨にはレプタ(ルカ21章2節)という銅貨がありました。その他にはローマの貨幣としてとしてコドラント(マルコ12章42節)という青銅貨、アサリオン(マタイ10章29節)という青銅貨、そしてデナリ(マタイ22章19節)という銀貨がありました。

ひとりの貧しいやもめがレプタ二つをささげた行為を主イエスは生活費全部をささげたと言っております。このやもめが生活費で伝えたかったメッセージとは何のでしょうか。おそらく前の18〜27節のレビラート婚に関する記事と28〜40節の生きた信仰をもったやもめの記事を受けて書かれていると考えることができるのではないでしょうか。すなわち、見栄でささげものができた多くの金持ちたちに対してこの女性は生活費を使ってでも伝えたいメッセージを持っていたのです。

それは人間には将来の生死を決める知恵は授けられておりませんし、逆境にあって命を生み出す能力は欠けていると思いますが、神という存在がおられこのお方は私たちの目に見える世界がどんなに暗くても、変わらない温かいまなざしをもって見つめ励まし支えてくださるということだったのではないでしょうか。冷たい視線を浴びたことのあるひとりの女性は金持ちたちが知らない神を知っていました。彼女の隣人になって下さったのは神だったのです。聖書は「変わらない愛をもってあなたを愛している」(エレミヤ31章3節)と神の愛を証言しています。

マルコはダビデがわがキリストと仰ぐお方に、神が語られたことば(詩篇)を引用して神の御前にどのように生きていたかを紹介しています。それは神とキリストに任せる生き方でした。ここは献金をたくさんしましょうの勧めではありません。ダビデでさえ神とキリストに信頼して生活していたのです。貧しいやもめがどこに救いを見たのかと言いますと神がおられる世界に救いを見たのです。彼女はただ神によって支えられていることを証ししたかったのです。人に伝えなければならないのは見栄ではなく生ける神です。

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