「らい病人シモンの家にて」(マルコ14章1節〜9節) ( 8.6/2012 ) |
「イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、」(3節) このマルコによる福音書14章は祭司長たちの主イエスに対する暗殺計画とユダの裏切りがひとりの女の塗油行為を挟む形で書いています。すなわちこの塗油行為はマルコにとって大切な意味を持った行為でした。時代の流れは主イエスを葬る方向に向いていましたがこの女性にとって主イエスの生き方には特別な意味があったようです。 彼女は300デナリ以上の価値のある高価な香油を主イエスに注ぎました。このことを主イエスは自分の葬りの用意をしてくれたと喜び、記念として語り継がれると言われました。記念されるということは彼女は主イエスに信仰者として認められたということでしょう。この行為のどこに信仰が見られ、語り継がれる要素があるのでしょうか。 第一に彼女の信仰は損得では無かったようです。第二に神に逆らうことをしませんでした、すなわち主イエスと彼女に神が与えられた厳しい道筋を受け入れていました。第三に彼女の信仰は主イエスと共に歩み彼を励まし力づけるものでした。 弟子たちにとっては貧しい人々に施すことが尊い生き方でしたが、彼女は主イエスの生涯に興味をもちました。そして彼女が注いだ香油はこれから裁判や刑場に引かれていく主イエスにとって恐らく大きな励ましとなりました。それも生前に付けられる香りではなく死後に塗られるとびきり上等の香りが先だって付けられました。彼女にとっては主イエスと共に神のご計画を受け止めましたという意思表示だったのかもしれません。 わたくしたちはしばしば人生の中で神を疑うのではないでしょうか。損をした時、自分の思い通りの進路が開かれなかった時、神の負わされる重荷が重い時など、主イエスに限らず神から離れる理由をもっている方は多くおられます。しかし主イエスは彼女と共に神に負わされた十字架を担いました。彼の十字架には意味があったと聖書は証言しています。すなわち大祭司カヤパが「ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。(ヨハネ11:50)と語っていますが彼の十字架は神から離れていった多くの人々の為のものでした。 主イエスの死が全国民を滅びから免れさせることになることを受け入れるならば、わたくしたち個々人と主イエスとの関係が築かれるのではないでしょうか。すなわち彼の死のゆえに神と再び出会います。そして生き方が変わります。わたくしたちはまだ人を赦せない、愛せないとしても、今、わたくしたちも主イエスがわたくしたちの身代わりとなって滅びてくださったことを信じ受け入れる時、彼によって滅びを免れた者としての生き方を始めることができるのではないでしょうか。主イエスによって赦された人には赦されたように歩む責任も与えられるのではないでしょうか。神の御思いは測り知れないと感じます。らい病は十字架の後も去らなかったかもしれません。けれども主イエスは彼の家をすべての人が赦された者として出会える場とされたでしょう。主イエスと共に人生を受け止めていく時に新しい生き方が見つかるのではないでしょうか。主イエスによってしか神の与えられる課題を受け止め解決することができないと認める必要があるのではないでしょうか。どんなに困難で未解決に見える問題があってもシモンの家には魅力があったのです。まず心を携えて主イエスと出会いましょう。 |
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