「与える生涯」(マルコ14章10〜25節) ( 8.13/2012 )
「イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(24節)

今日は、主イエスの弟子であったユダが主イエスを裏切る契約を時の指導者たちと結んだところ、更に主イエスが弟子たちと最後の食事をした様子について記してあるところをお読み頂きました。

更にこの後には筆頭弟子であったペテロがイエスを知らないと言って否認してしまう記事が続いております。主イエスを取り巻く環境は暗くなり、弟子の中からも裏切る者が出、主イエスが死罪に定められていく中で、その前に大切な契約が結ばれました。それは今日教会で行われている聖餐式です。弟子たちの弱さの真ん中にマルコは主イエスの聖餐の命令を記しています。そしてこの聖餐の意味は与えることであったということができます。

1.弱い者に与えた命
主イエスは彼を裏切っていく弟子たちの為にご自分の命を与えてくださいました。彼は弟子たちの裏切りを知った上で共に食事をし聖餐を制定してこのことを覚えるように教えられました。主イエスはわたくしたちが彼に背を向けている時にもご自分の生涯を与えてくださいました。わたくしたちも関係の薄い方、敵と思われる方のために命を与えることを彼は教えてくれています。

2.契約のために捨てられた命
過ぎ越の祭りは出エジプトの出来事から始まっています。イスラエルではこの祭りは最も大切にされています。それはエジプトで奴隷となっていたところから救い出されたとき、イスラエルの民のために神が裁きを過ぎ越されたことを記念した祭です。しかし、民はやがて神から離れ好き勝手な生活をし、やがて神を愛することも隣人を愛することも忘れてしまいました。そして、再び奴隷のような状態に帰ってしまいました。それがバビロン補囚です。その神から離れてしまった期間に現れた預言者たちは後に起こることを語りました。エレミヤ31章です。「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。・・・彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。(33〜34節)」ここに「契約」とあります。神の側の裁く要求は主イエスの十字架の死によって満足されたというのがこの契約の意味でありましょう。しかし完全に知られないのには理由があります。

3.与える生涯
主イエスはこの神との契約の中でわたくしたちとも契約をして下さいました。それは聖餐式です。聖餐式を守るたびに主がわたくしたちのために血を流されたことを思い起こすと共に、彼とわたくしたちが一つとされたことを思い起こすのです。(主イエスのように与えたら死んでしまう)というのがわたくしたちの本音でしょう。今、完全でないかもしれませんが、主イエスが再び来られる日までこの聖餐を重んじつつ、主イエスと同じように生活し主イエスが見られた神の国を見せていただくことが幸せなのではないでしょうか。赦す人も赦されるというのは原則のようです。主イエスから受け隣人にも分かち合いましょう。わたくしたちがどんなに離れいても聖餐式に招かれ続けていますので、これは間違ったことではありません。

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