「はるかに越えて」 (エペソ3章14〜21節) ( 8.19/2012 )
「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。」(20〜21節)

Uコリント11章23〜28節はパウロが主イエスを信じてから経験した苦難の目録です。私たちはこんな困難が与えられてもなお神を信じ主イエスを信じることができるでしょうか。少なくともパウロはその苦難を受け止める力をもっていました。彼の信仰から学びましょう。

ガラテヤ6章11節には「ごらんなさい。わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを。」と彼の手紙が代筆であったことが分かります。彼は数々の苦難の他に目を患っていました。またUコリント10章10節には「人は言う、「彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」。」と、彼の容姿も力強くはなかったようです。
これらのことにより彼が生活の中で困難を受け止めることができたのは、環境の良さ、素質の豊かさではなかったことが分かります。では何が彼の力であったのでしょうか。

エペソ人への手紙3章14〜16節に、「内なる人を強くしてくださるように」と出てまいります。彼の力の秘訣は「内なる人」でした。それは「自我」ではなく「キリスト」であると彼は説明しています。(自我は受け入れますけど、キリストは御免被りたいです)という方が多いのではないでしょうか。確かに仕事以外で他の人に仕えるのは大変なことです。しかし、パウロもはじめは私たちと同じ生活を送っていたひとりでした。けれども、彼は主イエスの弟子になりました。気が狂ったように証ししたい(Uコリント11章23節)と証言しています。気が狂ったようになって証言したかったことそれは、キリストでした。キリストはパウロが経験していたような苦難を受けた方でした。そして彼が主イエスの声を聞いたた時思い浮かべた先の弟子たちも同様に苦難の中にあったのです(使徒行伝9章、22章参照)。

では、信仰生活の場が苦難の中であるとすると、なぜ信仰が必要なのでしょうか。恐らくこれは愚問で、信仰をもっていなくても苦難は訪れるのです。そして信仰をもっている人は苦難に押しつぶされ誰かを恨んだり喧嘩しながら生活するのではなく苦難の中で輝き、キリストの後に従い愛に根ざして生活するのです。内なる人、これが自我である場合が普通の状態でしょう。けれどもパウロはこの内なる人に主イエスを迎えました。どうして大切な自我をキリストに明け渡すことができたのでしょうか。それは彼も罪を自覚してるひとりだったからでしょう。主イエスの死という神の裁きがパウロにも必要だったからでした。彼はこの出来事で主イエスに結ばれていたのです。しかし彼は普通の人と違っていました。Uコリント2章14節「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。」彼は強い人を証ししたのではなく弱い人を証ししました。伝道がうまくいっていることではなく伝道者となって受けた恥を証ししました。恥が良いことと言っているのではなく、辱めにも耐えさせてくださったのは神であったと彼は証ししています。

問題は外側の壮麗さではなく、内なるひとの強さです。しかし内側の強さは決して自我の強さではいけないのです。わたくしたちの内なる人はキリストでなければなりません。一般的な建築は外側から作られていきますが神の宮は外側からでなく、至聖所から組み立てられていきました。わたくしたちも神のお住まいになる内なる人を強くして頂くことから取り組みましょう。

神はわたくしたちの思いをはるかに越えてかなえてくださるお方です。弱さを神の栄光に変える力のあるお方に祈りましょう。

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