「信仰生活のもどかしさ」(マルコ14章26〜31節) ( 8.26/2012 )
「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。(28節)

この主イエスに対する弟子たちの忠誠はこの記事の直後に試みられます。しかし、ゲツセマネの祈り中の弟子たちの居眠りに対する主イエスの寛容な態度は、主イエスが弟子たちの弱さをも既に受け入れておられることを感じます。ペテロをはじめ弟子たちの信仰告白はわたくしたちと共通するものがあると思います。しかし信仰生活のもどかしさ、それはどこから来るのでしょうか。

27節の「「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。・・・」と主イエスが予想したのには理由があると思われます。マルコはゼカリヤ13章7節で説明していますが、本質的な問題は主イエスの受難を受け入れることができない点にあります。複線としてすでに8章12節に「イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。」と言っておられます。パンの奇跡の後にしるしは行われないとはどういうことでしょうか、それはパンの奇跡が天からのしるしでなく信仰に依る行いであったからではないでしょうか。この8章にはパリサイ人とサドカイ人のパン種を警戒するようにと語られています。すなわち、私ども読者もまた主イエスに聖書を通して出会って後、いつの間にか救世主、権威者、崇高な指導者を期待し、奇跡による救いを主イエスに期待しているのです。ところが、主イエスは弟子たちの期待を裏切って人間的な弱さそのものを抱えた姿で捕らえられ、十字架へと進んで行かれます。

ここに彼らの裏切りの要因が生まれます。つまずく要因です。ユダはその最たる存在であり、積極的に主イエスを裏切ってしまいます。わたくしたちが主イエスを知らないと言ってしまう要因は苦難にあります。主イエスを信じた後、苦しみが何も起こらなければつまずく人も減るでしょう。けれども、この考え方は最初のボタンが掛け違っていると、このペテロの告白は教えているのではないでしょうか。わたくしたちの信仰は、このペテロの記事を見て一見して肉的な熱心さではないことが分かります。そして奇跡に依存する信仰でもないことが分かります。では、何が本当の信仰なのでしょうか。主イエスは28節に「わたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。と言っておられます。パンの奇跡が行われた場です。すなわち、それは一部の富める方によって支えられている交わりでなく、皆貧しいのですが乏しい中から持てる物をそれぞれが分かち合って生活している場です。そこに生活している方には賭博的な儲け話はなく、野菜の種を分け合い汗を流す社会があったのではないでしょうか。

主イエスを信じた信仰生活とは、立派な信仰というものが存在し立派な信仰告白が存在する生活でなく、奇跡を信じる信仰でもなく主イエスのように神から与えられる重荷をしっかりと担うところに信仰があると教えているのではないでしょうか。神が力を現してくださるのは外的状況でなくわたくしたちの内側なのではないでしょうか。

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