「主イエスが祈られたとき」(マルコ14章32〜42節) ( 9.3/2012 )
「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」(38節)

主イエスが十字架を前にして特別な祈りをされた時、弟子たちは側に招かれました。しかし、彼らは肉体の疲れから目を覚ましていることすらできませんでした。

先週は主イエスを知らないと言ってしまう弟子たちの行動とわたくしたちの信仰に共通点があるのではないかということを考えました。すなわち、恐らく、敗北のない救い主でしたら彼らはどこまでも従っていったのですが、世の権力者に引き回される救い主は否定したのです。(神が働きかけるのは他の人に対してであり、自分自身に対してではないと考えがちな点が私どもと弟子たちに共通しているかもしれない)と感じたのです。

今日学びます主イエスの祈りはこのような勝利思考の信仰とは違っています。すなわち、「わたしの思いではなくみこころのままになさってください。」という祈りなのです。としますと、(信仰は必要ないのでは)と思われる方もおられるかもしれません。けれども、「みこころのままになさってください」は神を否定した生活から生じるあきらめとは違っています。

そのことを明確に表しているのが弟子たちの姿です。弟子たちはどうにもならない状況で眠る以外にできることはありませんでした。もし主イエスにも苦難を受け入れる覚悟が無かったならば彼も弟子たちと同じように眠ってしまったでしょう。けれども主イエスは目を覚まし苦難を受け取るために神に祈り続けたのです。

弟子たちも主イエスも肉体の弱さは同じであったでしょう。けれども、祈る目的が主イエスと弟子たちでは遠くかけ離れていました。主イエスは「この杯」と言っていることから苦難を受け取って祈りましたが、弟子たちは恐らく苦難から逃れるために祈りました。

主イエスの弟子たちへの願いは目を覚まして祈っていてほしいというものでした。それは苦難を受け止めるために祈りの支援が必要だったのでしょう。わたくしたちにも神は日々太陽を昇らせ心の中まで光で照らし出し、悔い改めて歩み直すべき光の道を示されます。しかし、たぬき寝りして少しも光に戻ろうとせず祈らない弱さが私どもの内にあるかもしれないと思ったのです。信仰とは目を覚ます勇気ではないでしょうか。

主イエスの励ましはやがて実を結び弟子たちはひたすら祈るようになります(使徒行伝1章14節参照)。これは光に従う喜びがどんな涙も恥をも拭ってくれたからこそ周りの方々にまで拡がったのではないでしょうか。私たちも「目覚めて祈り始めています」と主イエスに答えようではありませんか。主イエスは世に大事業を残したのではありません。弟子たちに教え、そして神に祈ったのです。しかし、世界を変えたのです。私たちの人生にも目覚め祈ることが許されており苦難があったとしても価値があるのです。

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