「十字架を負うキリスト者」(マルコ8章34節) ( 9.19/2012 )
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マルコ8章34節)

利己主義がどうすれば解決できるのか知るために共産主義やキリスト教、仏教、神道等を学んだ青年がいました。仏教は無常という理解であり哲学であったそうです。神道はキリスト教のネストリウス派の影響を受けた教えであったそうです。しかしこれだけ分かってもなおイエスの神性が理解できなかったそうです。そしてこの青年はやがて社会的な活動に没頭する中で主イエスのことも忘れて社会が整えば利己主義も解決できるかのように宣伝しつつ時を過ごしたそうです。

けれどもある日、彼は十字架にかかられた主イエスを思い出します。それは十字架を担い十字架に押しつぶされるキリストでした。どうして彼が重荷に押しつぶされなければならないのかと考えたとき、彼はこの十字架がなければ自分が救われることは無かったのだということを思い出しました。自分の罪が彼を押しつぶしたのだと。

(彼は時をさかのぼりました。それは自分の罪を知った時についてでした。その罪とは神をあごで使うように考えていた罪でした。「病気を癒して下さい。〜して下さい」と自分の思うままに神が動いて下さるように彼は錯覚し信じて生活していたのです。しかし彼は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マルコ8章34節)の聖書の言葉から、従うべきは私であったということを知ったのです。)

十字架を担ったイエスが神の子、これは神が主イエスの復活を通して証しされたことでした。しかし約2千年経った今も神は私たちに生活の中で(誰が神なのか)と問いかけていて下さっています。そして私たちも様々な問題にさらされていますが神はおそらく「我に従え」と語りかけていて下さっているのです。今日も誰かの重荷を負えたら幸いではないでしょうか。重荷が人をダメにするのではなく主イエス以外を神とすることが混迷を生むのではないでしょうか。

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