「十字架上の主イエスと御霊」(ガラテヤ6章14節) ( 9.23/2012 ) |
「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤ6章14節) 人の生活は何によって変わるのでしょうか。 パウロは第3回伝道旅行で、律法によって生活が正されるように信じ心変わりしてしまったガリラヤの人々を見、ここで主イエス・キリストの十字架を思い起こすように勧めています。私たちの生活に主イエスの十字架は見えているでしょうか。 そういうわたくしも主イエスの十字架をいつも見ていたわけではありません。イエスの死と今、現に生きている私を死んだ者と表現するパウロの手紙の意味が分かりませんでした。しかしひとりのイエスというお方の行為(十字架)の結果が全ての人に及ぶこと(ローマ5章18節)、「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。」(Uコリント5章14節)、そして死んだ人は罪の誘惑からも解放されていること(ローマ6章7節)、それを認むべきである=計算されなさい=死の宣告を受け取りなさい(ローマ6章11節)ということ、自分の肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。・・・義の武器として神にささげなさい(ローマ6章13節)、と聖書は教えていました。 主イエスの死、それは約2000年前の出来事であるばかりでなく、わたくしたちの日常の問題なのです。イエスの死の結果、裁判官に「あなたは死にました」と宣告されてしまったようなものです。では何によって生きていったらよいのでしょうか。 ガラテヤ人への手紙3章1〜5節を読んでみましょう。3節に「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。」とあります。すなわち今、御霊が感じられないとしたら、今日、このお方をお求めなければなりません。力ある業はわたくしたちの生来の力では行えません。パウロがガラテヤの人々に思い起こしてもらいたかったのは、(力ある業は律法によってではなかっただろう)ということでした。ただただ十字架についてくださったお方を信じた結果彼らは御霊を受けたのでした。わたくしたちの罪の結果である主イエスの十字架上の死を見上げたときに彼らは古い自分の性質から救われ、聖霊を受け聖霊が新しい生活を与えてくださったということを思い起こしてほしかったのです。 聖霊以外に頼りとしていたものがあったならば、今日「目標が間違っていました」と悔い改めましょう。律法を行うことは目標としては不適当です。御霊がないのでいつまで経っても良心が満足することがありません(ローマ2章29節)。御霊によって生活し主イエスの跡に従うことが目標なのです。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、誠実、柔和、自制は肉の実ではなく御霊の実です。御霊によって生きることを選択し、御霊によって進みましょう(ガラテヤ5章16節以下)。御霊の欲するところは肉に反するので、正しくあれたならば、ただただその栄光は御霊のものです。栄光を、御霊と十字架で死んでくださった主イエスにのみお渡ししおささげしようではありませんか。窓を開けば外とひとつ空気になるように心を神に開きましょう。 |
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