「罪を捨て、新たに生きる勇気」(マルコ15章34節) ( 9.30/2012 )
「そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」(マルコ15章34節)

先日7歳の女の子が、キリスト教の指導者に「私はとても怖い思いをしています。大丈夫だと思っていた家がとても揺れ、同じ年頃の子どもがたくさん亡くなったり、外の公園に遊びに行けないからです。なぜこんなに悲しいことになるのか教えてください」と質問しました。その指導者は答えとして、「我々は答えを持っていませんが、罪なきキリストがあなた方と同じく苦しまれたということは知っています。真実なる神は我々と共にいるのす」と答えたそうです。この答えに対して拍子抜けしたというコメントが多く寄せられていました。

日本人の多くの方の信じておられる宗教では必ず物事には原因があるから原因を正す必要があるという理解だそうです。しかしこの指導者はキリストを紹介して(彼が苦しまれたのは、人々に原因のない苦しみが及んだとしても神は共にいる決意を固めておられるのだ)と教えておられたように思います。更に、主イエスが十字架に上げられて血を流された時、彼の祈りは「わが神、わが神」でした。死罪を宣告され血を流し辱めを受けながらも、なおも彼にとって神は「わが神」だったのです。

わたくしはキリストが「わが神」と叫び「なぜ見捨てたのですか」と祈れたゆえに自分では負いきれない重荷に苦しむ方々にも希望があると思うのです。人々に「見捨てられたね」と言われてしまう時にも神を諦めなくて良いことを知ったのです。重荷を負うことの恐ろしさは神から離れてしまうことです。(神などもういない)と思ってしまいやすいと思うのです。けれども、主イエスの確信は十字架の上の確信であり「どうして」であったのです。十字架に上げられてもなお神の愛は変わらないという確信を持っておられたのです。

私たちもまた、これほどの神の愛への大きな信頼を持つ時、正しく歩み直す勇気を得るのではないでしょうか。罪をごまかさず認めて神に告白し、罰を受ける勇気を得るのではないでしょうか。神の愛が私たちに罪を捨てる勇気を与えてくれると思うのです。なぜなら主イエスの祈りの言葉で分かることは、罪に責め悩まされる時、神だけは変わらす隣人でいてくれるからです。

座頭市というばくち打ちが師匠の妹さんに愛を告白された時、彼は刀を捨て生活を改めることにしました。しかし彼女の兄から結婚を許してもらえず、元の生活に戻ってしまいました。彼女の愛は変わったのでしょうか、・・・・愛はそのようなものでは変わらなかったはずです。しかし私たちも同様に状況によって神の愛が見えなくなってしまいます。もし、主イエスのように十字架の上にさらされても神の愛を信じ続けることができたなら、と思うのです。神の愛があるから私たちは悪しき心を捨てる選択ができるのではないでしょうか。神の目は人間の尺度では理解しがたく、どんな過去を抱えていても愛してくださるゆえに人は生きていれるのではないでしょうか(Tテモテ1章15節参照)。使徒パウロは気が違ったようになって熱心に伝道します。それは罪人である自分が神に愛されていることを知った結果でした。自分が義とされるために律法に生きていた彼は、信仰によって義とされたから正しく生きる生涯に変えられたのです。誰も誇れないほどに神の愛は大きいのです(ローマ人への手紙4章2節参照)。私たちの罪を捨てる力、正しく歩む力は神が握っておられるのではないでしょうか。あなたを義としてくださるお方は神です。これが罪を捨てる勇気です。

TOP