「神の愛を伝えた主イエス」(マルコ1章45節) ( 10.7/2012 )
「しかし、彼は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめ」(マルコ1章45節)

1.キリスト教の救いとは

仏教が死を受け入れて説法されていることを考えますと、キリスト教教の特徴は死と共に神を受け入れることをまずもって目的としていると言えると思います。キリスト教は典型的な救済宗教です。何から救われるのかと言えば「罪」です。その罪とは神から離反したことを指します。神は人を「神の似像(かみそのものではない)」になるように創りましたが、人は自身のエゴでそうなっていません。その状態から本来神が意図した「当たり前の人(神から見て、聖書では義人)」に戻ることが救済となります。イエスを救済者とするのは・・・イエスは生あるうちも罪を犯さず(当たり前の人)、不条理な死に抗っても、結局神には従順であった、神はそれを正しい(義)とし、イエスは新たな生命を得た(復活、生物的な命とは種類を異にする)、こうして、そうであったイエスを今や容易に知る事が出来るようになりました。
そのイエスを信じ同じ道を歩む者は、同じように本来の「当たり前の人」となり(当然連動して社会も変わる筈)、死後に本来与えられる筈だった新たな生命が与えられる・・・故にイエスは救済者と呼ばれる。つまり人の根源的回復を示しています。ですから、キリスト教は一般に言うご利益宗教ではありません。

2.キリスト教信仰とは

「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人(義人)は信仰によって生きる(ハバクク書2:4)」、イエスの直接の弟子ではなかったパウロは、この箇所をヒントに信仰義認(神との正しい関係は信仰によってのみ形成される)を述べています。それは道徳的な生活で得られるものではなく、すべては神との関係から生まれます。人を愛することも神との関係なしでは、只の人類愛にすぎません。愛は神から出て、隣人にまで及ぶのです。故に、神との正しい関係こそ人間の生きることの根本となります。この関係を失わず続けることが信仰と言えるでしょう。信仰とは、神を愛し隣人を愛する事、これは不可分だと言われる所以です。ゆえに「隣人愛」を抜かすと狂信と言われます。その隣人は貴方であり、あなたの妻や家族でもあり、友人でもあり、他の人でもあり、敵でもあり(敵を愛するがゆえに批判もする)、その区別はありません。そのイエスを信じるのが救いに繋がるとキリスト教は伝えます。つまりイエスにこそ、神と(神から断絶した)人との間の仲介をする重要な働きもあるということになります。祈りの時、「父なる神へ・・・・イエス・キリストの名によって祈る」という定式はこれから来ています。

3.キリスト教の宣教とは

宣教とは、イエスを信じる者が、自分の体験を基に、イエスの癒しと神の国の到来(地上に、人が支配するのではなく、神が支配する平等で平和な世界が実現する)を伝える事、とマルコによる福音書にあります。イエスから重い皮膚病を癒された者が、「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた(マルコ1:45)」とあります。「言い広め」の箇所は原文では「ロゴス(行為と言葉)を宣べ伝え」となります。これと平行して「この出来事を人々に告げる」が語られています。福音はイエスの行為(癒し)と言葉(神の国の実現)であり、それを語ることが宣教となります。それは癒された人の身の上に起こった事を抜きには語れず、この者の語り始めたことが「宣教活動の始まり」であった、とマルコは伝えています。マルコの時代、「宣教」という言葉は「説教」とほとんど同義語に用いられていて、コリントの信徒への手紙U4:5でも「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」とあります。 マルコは「重い皮膚病を癒された人のこの行為こそ宣教であり、それは使徒たちの宣教活動に先行するものであった」ことを語ることにより、宣教という行為の聖職者による特権化を批判しています。キリスト教信徒が、自分の体験を通してイエスを語る事を「証しする」と言いますが、これは宣教にあたります。 

わたくしの場合は、自分の家族の弱さを受け入れた時が救いでした。それは主イエスに出会って神との関係を知った結果でした。しかし、本来は、生きている家族を受け入れることが救いです。「悔い改めなさい」という命令でなく、神の愛を受け取った時から救いは始まりました。

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