「何を伝えるのですか?」(ヨハネ1章1〜18節) ( 11.12/2012 )
「神を見た者はまだひとりもいない」(18節)

これはヨハネによる福音書の冒頭の言葉です。聖書は成立した時点から既に共観福音書を受け入れたように絶対ということを否定している面を否めないと思います。絶対を神の権威に置くこと、まして指導者に置くことも危険であるということです。(様々問題を起こしている宗教があり今後もその危険がありますから)

主イエスがどうして十字架にかけられたのか、その理由は「絶対」を否定したからです。そして神の権威を預かっていると自負する人々のプライドを傷つけたから十字架にかけられることになりました。「あなたはほむべき者の子であるか」という質問に対して主イエスは何と答えたでしょうか(主イエスは神の権威よりも神の愛を行うことを重んじました。ゆえに、主イエスから暗に「神を見せてあげたのだよ」と言われて)、あまりに強烈な皮肉を言われ指導者たちのプライドは耐えられなかったのです。

「良い土地に落ちた種は〜」というお話があります。あるしゅうとが牧師に退職金の一部を分けてあげるから教会を建て直す資金にでもしてくれと頼みます。すると息子は「ありがとう、神にささげますね」と言って会堂建築に使わないで貧しい人たちのために使ってしまいました。しかし、数年後、町にはいくつもの貧しい教会が建っていたと言うのです。そしてその結びは、教会とは中に集う人々なのですよ、という言葉で締めくくられていました。数ヶ月前ある教会の礼拝で洗礼式がありその最後に、受洗した子どもが「受けるより与えるほうが幸いであるという生き方をしていきます」という証しをしていました。教会が建つとは建物の素晴らしさではなく主イエスに倣う人々が育つことなのだと教えられました。昨日三春でもご近所の方にお菓子を買ってもらった子どもたちがお家でお留守番してくれているおばあちゃんにお菓子を分けることに同意してくれました。

もし教会が「〜ねばならない」という教えをのべ伝えるなら今後も聖書を読むだけで様々な見解が生まれるでしょう。しかし、もしわたくしたちが神の御姿を証しするなら神の愛が地域社会に証しされていくのではないでしょうか。主イエスが教えた足を洗い合う横並びの生活スタイルは、現時点では農村のほうが健全に形成されているように感じます。今後三春新生教会もお互いに仕え合う生活の中に働いておられる神を互いに見ることを大切にしていけたら幸いだと思います。一番危険人物であるわたくしから生活を改めていきたいと思います。
「神を見た者はまだひとりもいない」というこのチャレンジに自分を捨てて応答致しましょう。

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