「偉くしているのは誰か?」(Tコリント4章1〜16節) ( 11.19/2012 )
「 わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである。」(10〜14節)

以前、毎日のように教会にトイレを借りにきてくれる方がおられました。そのかたはご近所の方と仲良くお話されることもなく、むしろそういう交わりは苦手な方で、ただひたすらにご近所のごみを集めてくださった後「トイレ貸してください」とおっしゃるのでした。ご近所の皆が知っている笑顔が素敵な方でした。また、今年、ひとりの兄弟が結婚され新しい家庭を築かれました。幸せがにじみ出ているような顔をして生活しておられます。このご家庭の特徴は「優しい言葉」のようです。ご主人が優しい言葉を使い、奥様が大変なことも優しい笑顔で受け止めておられるようです。

使徒パウロも「ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。」と言っておりますがコリントの教会との関係は良好ではなかったようです。しかし「優しい言葉」で困難に勝利し自ら進んで迫害を耐え忍び彼らを愛児と呼びました。そして「わたしにならう者となりなさい」(16節)と勧めています。

「 いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。」(7節)自分を偉くしないように、戒め、努力し、隣人を愛し、仕える生き方を学びたいと思います。

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