「きよめられた生」(1ヨハネ1章1〜10節) ( 12.3/2012 )
「 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」(7節)

ある少年は自分がとっさについた嘘のためにその解決を求めて仏教の教えに倣い、神道を熱心に信仰し、数年後全く変わっていない自らを省みて神主さんに相談しました。「全然きよくなった感じがしないのですが」と。神主さんは言ったそうです。「人間は何度悔いても失敗を犯す者なのじゃ」と。一生懸命にきよくなろうと信心した少年は失望し、そのような少年はやがて中学生になり中学の先輩に誘われてキリスト教会へ行ったのでした。そこで聞いた言葉が「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめるのである。」でした。この少年はやがて牧師になりました。

けれども、もっと身近な証があります。それは、同じように御子イエスのメッセージを聞いて、その後社会人として定年まで仕事を全うした方のお話です。彼は御子イエスの血に信頼すると言うことを知った時、これは手放せない、大切なものだと感じ、教会へ通い始めました。そこで知ったのは愛の神と供に歩む安心感でした。しかし、どうすればきよく生活できるか、これは彼にとって生涯のテーマでした。そして得た結論は自分が罪深い存在であるということであったそうです。そしてもし、罪を犯さないで生きることが出来るとするならば、それは唯一、聖霊に寄り頼みお従いする時しか、きよい生活は出来ていないと認めたのです・・・と証しして下さいました。

このヨハネの第一の手紙は仮現論という主イエスの人性を否定した考えを持った方々が教会から去っていってしまった状況下にあって、教会内で互いに愛し合うことができなかった人々に宛てて書かれた手紙です。わたくしたちも注意しなければならないことは神の配剤ということを強調し過ぎて隣人を無視して自らを神に義とされた者と考えがちな点です。仮現論が原因であれ、きよめ観が原因であれ、今日互いに学ばせていただきたいと願うことは信仰生活はひとりでおくるものではないということです。すべての人に「交わり」のある方々が必要ではないでしょうか。

そしてきよめを求める生活の場にある「交わり」の中に主イエスの血と神の配剤を信じるだけでなく、聖霊にうながされて「自分を他者と同一視し、彼らの艱難と苦しみを自らのうちに引き受け、彼らの重荷を代わって負うこと(ブッシュネル)」に挑戦する必要があるのではないでしょうか。御子イエスの血は見えません。けれども、隣人との間に繰り広げられる生活は見えるのです。互いに交わりを持つ中に主イエスの愛と互いに愛し合うしるしを証しできたら、と思うのです。

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