「与えられた人生」(マタイ4章1〜11節) ( 1.2/2013 )
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。」(4節)

人は生まれてくる家も自分の姿も時代も選べませんがなぜか序列を付けたがります。そのような視点で主イエスを見つめるとき、主イエスの生涯にもわたくしたちの人生との共通項を見出せます。それは主イエスも誘惑を感じられたという点です。

神によって負わされた人生を彼がどのように受け止めたのか、そこにはわれわれへの大切な示唆があると思うのです。しかし、注意しなければならないのは「神の子であるなら」(3節、6節)と断ってある点です。神の子と認められた後の時代に初期のキリスト教会が想像した主イエスの姿であるということです。すなわちこの結果は当時の人々が受け入れた主イエスの姿でした。当時権力の前に無力であった人々も主イエスを通して神から与えられた人生を見たのです。ゆえに、誘惑を退け苦しみを受け取れたのではないでしょうか。

第一の誘惑は石をパンに変える誘惑です。世界には食べることができな人々がおられることを聞いている人々と、実際に食べることのできない人々がいます。そしてこの構造に手を出そうとする人々は少ないのではないでしょうか。無関心がはびこっているのです。しかし、主イエスは(能力に由らず神はすべての人にとって神であるはずだ)と主張しました。すなわち隣人との間に上下関係を作るのは間違っていて、貧富の差によらずすべての人に等しい尊厳があることを教えました。

第二の誘惑は神を試す誘惑です。わたくしたちの場合、神を待てずに見切り発車して久しいかもしれません。すなわち自力信仰です。けれども、この神抜きの場合の失望や落胆は非常に危険です。一方、主イエスは見捨てられてしまった状況下に置かれても「わが神よ」と叫ぶことができました。(神の前に自分を失格者としませんでした)

第三の誘惑は偶像です。これは神の名を借りて自らの権益や力、支配力を求めることの悪性を指摘しています。

人の尊厳の無視、そして神への不遜、そしてさまざまな暴力、これらはわたくしたちの日常の問題です。しかし神が復活させたのは誰であったのか、生かされている本当の価値を初代教会の人々は見極めました。

神が無力だったのではなく、主イエスを見るわたくしたちの心が誘惑や力の魅力に流され(自分だけの神という誤った選民意識や欲望により)主イエスを見誤っていたのかもしれません。異なった思想や生活を非難する姿勢を考え直し、神の前にすべての人を平等な隣人として尊敬する生き方を選び取りましょう。ヘレン・ケラーに生きる力を与えたのは財産や地位や権力ではありませんでした。生を与えてくださった神の知り方に違いがあったのではないでしょうか。

井上一夫はヘレンのことをこう言っています。(彼女が偉大なのは大学を卒業したことではない。目の不自由な人や障害のある人のために世界中を回って、愛の光をともしたことだ)と。このようなヘレンのためにも同じように励まし手がいました。ベル博士は「目や耳が不自由だからといって、女としての幸福を得られないなんて考えてはいけない。もし将来、立派な青年が現れて、結婚を申し込むようなことがあったらしり込みしてはいけないよ。」と言ってくれたのでした。そして臨時秘書を務めたピーターから「結婚してくれれば、いつもあなたのそばにいて・・・・」と求婚されますが、ヘレンが気を使って事実を伏せている間に家族の反対にあってみのりませんでした。しかし(ヘレンは天にも昇るおもいでした)と伝記記者は記しています。彼女は不滅のほほえみをサリバン先生から学び、ベル博士やピーター・フェイガンとも神によって出会わされ、彼女自身もまた、闇の中にいる人々のためにする美しい努力を選び取ったのです。ヘレンはこう言っています。「みなさん一人一人が、救いの友であってください。・・・人生の幸福と希望は、私の仕事にどれだけ自分をどれだけささげているかによると思います」と。彼女の仕事とは、人々が知らないことを教えることではなく人々の知りたいことを教えることでした。神の愛は私たちの人生を通して具現化することを伝えたかったのではないでしょうか。

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