「イエスの叱責」(マルコ1章40〜45節) ( 1.8/2013 )
「ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。イエスは深くあわれみ(厳しく注意して)、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。」(40〜41節)

訳の問題ですが41節の「あわれみ」は、オリジナルに近い写本と考えられるものには、強い叱責を意味する言葉が残されています。叱責の理由とは何なのでしょうか。

(1)当時は重い病などは、すべて罪ゆえの神からの罰という観念で、病者は差別され苦しんでいた。そういう現実にイエスは怒っておられる。

(2)「御心ならば、清くすることがおできになります」という箇所は、マルコでは他にも、9章22-24でも『「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「できればと言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」』があり、イエスに悪霊を追い出す力を与えている神への信頼欠如に対しても、イエスは怒っている。

の2つが考えられます。癒された体を祭司に見せろ(癒された事実を見せる)、しかし誰にも言うな(沈黙を命じる)、とありますが、マルコはここで、癒された内容ではなく、事実起こった出来事こそ重要で、それは秘しても自然と広がるのだと言っているのでしょう。実際、癒された者は『大いにこの出来事を人々に告げ、言い(ロゴスを)広め始めた』とあります。これはイエスが地上で悪霊を追い出し、病を癒し、罪人を招いて仲間とした行為に関する事、つまり福音を宣言する告知であります。福音とは、イエスのこうした業がアッバ(父なる神)の支配の現れであり、それは病める者にも起こったのだ、マルコは言っているのです。

デカルトは「我思うゆえに我あり」と言いました。彼は人間の感覚が人を欺きやすいものであることを考慮するとき、疑い得ないもの、それは、自分の存在であるということから、律法主義的信仰を第一にする者の心の奥底には結局のところ自己実現への願望があるということを指摘しています。表向きは病者に「きよさ」を押し付けながら、実質はただの自己実現・自己満足・自分自身が神になろうとする事にすぎないと感じます。ブローシュは英雄主義を批判しこう言っています。「英雄主義は運命をものともしない態度である・・・聖とは愛するに値しないものに対する愛であり、英雄主義は理想を愛する・・・英雄主義は神のきわにまで上りつめることを切望するが、聖は神に対する降伏を意味する」と。律法主義的信仰に起因する争い事は、一つには英雄主義に陥ってしまった結果ではないでしょうか。

主イエスの怒りは、(どうにもならない現実があったとしても)自己満足の願望に向かってしまった事に対する怒りであり、自我と戦うことを私達に求められている、という事を教えてくださったのではないでしょうか。病者は自己を捨てて必死の願望を伝え、イエスは病を癒した。病者の本当に願いは地上を生きることであり、それまでの自我を捨てることで、新たな生き方を得たのでしょう。彼はその後、沈黙を命ぜられたにもかかわらず、福音を多くの人に告知します。それは自分がきよめられた事ではなく、イエスの告げる福音が現実に起こったのだ、それはもう黙っているわけにはいかない。私の隣人にも福音を伝えなければ・・・そして、隣人も幸せになれますようにと願ったでしょう。

アレクサンドリアという映画で「奇跡を見せてください」と願い出たひとりの青年は、指導者にパンを渡されました。そして「彼らに分けよ」と人々を指し示されます。そして、「これが奇跡だ」と言い渡されます。そして彼はクリスチャンになるのですが、時代は暴徒化したクリスチャンの時代になってしまいます。手の付けられないクリスチャンの時代に突入したとき、この青年の選んだ道は異教徒の女性の悲しみと痛みを覆う事でした。自己満足の自我に生きるか、隣人を生かすために生きるか、真の生き方を問われているのではないでしょうか。

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