「神の存在証明」(マルコ10章21節) ( 1.13/2013 )
「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。」(21節)

神を信じるゆえに何もしない、何もしないで神の奇跡を待つ、これを信仰とは言えません。そしてロボットのようなキリスト者の姿が、神の力の証だと言っているのでもないでしょう。もし権威付けをし、権威への従順が神への信仰を証明するとすると教えたとしたら、それはイエスが反対したバビロン捕囚以降の律法固執主義の思想になってしまいます。

主イエスに従うとは、指導者の言ったままを行うということではなく、神のために自分の持てるものを用いる過程にあって、神は業をなされるのだと教えておられるのではないでしょうか。恐らく主イエスの願いは、神の主権の下(神の国)にすべての人を置くことだったでしょう。信仰のゆえに隣人を傷つけるなら、神の御意思にも反するのです。使徒行伝の10章と15章にはユダヤ人以外にキリスト教が拡がったきっかけとなった事が記されています。アンテオケ教会がキリスト教会として認められたきっかけが書いてありますが、神のみ業を認められたところが大切な点ではないでしょうか。

ある映画のクライマックスの場面で、「恵み深い神はあなたを遣わしてくださった」というセリフがでてきます。神はどこにおられるのか、これは人類に負わされた課題であり、ガリレオも神の力の存在を科学的に証明することに挑戦し、今も科学者は取り組んでいます。けれども、神を体験した人の言葉に耳を傾けるとき、そこには神に用いられた人がいるのです。ただ、(貧しい、小さな)隣人を愛し助けようとした人の中に確かに神は存在するのです。

神はこんな小さな私をも分け隔てなさらないのだと感じます。そして神の業は、神を信じる人とともに、神を信じない人をも通して行われているのかもしれない、とも感じるのです。それは、「天に宝を持つようになろう」と言われるように、応報思想が無いからです。その逆に報酬を望む人は、報酬自体を神のごとく思っているという事ではないでしょうか。神の御業は細部に宿る、小さい者、弱者にこそ現れると聖書は語っています。私たちは、神の存在を証しする小さな群れでありたいのです。

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