「一番大切な人」(マタイ18章23節〜35節) ( 1.20/2013 )
「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか。」(マタイ18章33節)

紀元前587年、バビロン捕囚によりユダヤ人たちは完全なヤハウェ神の敗北を体験します。このとき、生き残った人々は神々の戦争の結果の敗北と言う捉え方を改めて、唯一の神に背いた結果の敗北であったという理解をします。ユダヤ教的唯一神教の誕生です(因みに、それ以前はアブラハムを初めイスラエルの人々は神々の中でヤハウェとだけ契約を結んでいました)。これ以降、一部のキリスト教会に排他主義の根が今日まで続いています。(因みにカトリック教会は1965年10月以降「諸宗教宣言」により十分とは言い難いですが、考えを改めてきています)

一方、(多くあわれまれた者は多くあわれむべきだ)と主イエスは教えました。これは愛を受ける側にも愛し赦す責任があることを教えています。本来キリスト教の教える一神教は、神と人類との関係であり、『ペトロは口を開きこう言った、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(使徒言行録10:34)』のように排他性は有り得ないのですが、唯一神を誤解して解釈した『人が人を支配するピラミッド型の支配構造』を、イエスは否定しています。多く持つ者、多く愛された者、力を持つ者が神に寵愛されているというのではないという事です。多くの自由と力が許されている場合、それを自分のものとするのではなく隣人のために用いる責任を負っているのではないですか、というのです。

人に感謝しない者は神にも感謝しないと言った方がいます。逆に言えば、神に感謝する者は人にも感謝する、となります。更に言えば、隣人の病や苦難を共有し人を愛する者は、神を愛する者、となるでしょうか。一神教とはこういうもの、とイエスは語っているのでしょう。神を愛し、隣人を愛する、これ以上のものはないと教えています。

誰かが病に臥しているとき、重荷を負う家族は大変だと思います。もし誤った唯一神信仰に立つならば病は不信仰の結果とも受け取られかねません。しかし、主イエスが教えたように、病者を労り、隣人の皆が助け合うのであれば、精神的な苦しみは軽くなり、逆に悲しんでいる一番大切な方を慰め支えるための愛を得るのではないでしょうか。

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