「これからの生き方」(ルカ19章8節) ( 2.10/2013 ) |
「もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。(ルカ19章8節) もし、〜ならば、というのは条件文です。ですからいろいろな可能性が考えられます。まず、彼は自分が善人であることを強調したかったという場合、そして次に今は気づいていないけれども今後、神とつながり続けて行く中でもし不正に気づいた場合、その他が考えられると思います。マルコは主イエスが現れたとき「天が裂け」(マルコ1章10節)たと言っています。天が裂けたとは神との直接的な交わりを指していると思われます。 パリサイ人は掟を守ることで神に近づこうとし、サドカイ人は様々な贖いの儀式によって神に近づこうとしました。しかし掟は守れず、儀式もまた繰り返さねば心は満足しませんでした。すなわち、人々の生活は変わらなかったのです。そのような中、イエスは当時の権力に屈せずキリスト教の言う罪の状態にある方々と食事を共にし、癒しなどを行いました。(ペテロ以降のキリスト教会は使徒行伝2章42節にあるような定められた生活態度を救いをしるしとしましたが)主イエスは生活の有り方を変えることは求めず、神の肯定的関与による救いを伝えました。神との間を隔てている罪という概念を取り除き、ザアカイも神に近しく語り合えることを教えたのだと思います。すなわち、エゴイズムにしか目的地を見出せなかった人々に神を示したのではないでしょうか。エゴイズムに変えて神を愛し隣人を愛することを目的地とすることを教えられた人々は、天が開けた思いがしたのではないでしょうか。 レフ・トルストイという作家は「愛のあるところには神もいる」という作品の中で次のような言葉を紹介してくれています。「マルティンは偉い人間でしたが、年をとってからは、ますます自分の魂のことを考えるようになり、ますます神様に近づいてゆくようになりました」「がっかりしてしまうというのは、つまり、おまえさんが自分の楽しみのために生きようと思っているからだよ」と。 自己の救いという幻想から救われて、隣人と共に汗を流す中で神と出会えるのではないでしょうか。わたくしたちが守りうるものはたった一つの心かも知れませんが、神や隣人とつながり得る心なのではないでしょうか。天は既に開けているのではないでしょうか。「わたしは、神さまがくれたもののうち、たった二つのもの(見る力、聞く力)を失ってるだけです。その二つのほかには、いろいろな贈りものをもらっています。そのうちで、一番大切な贈りものは心です。・・・もっとよくなるように育てることができる心によって、わたしは、神さまがくれるたくさんの恵みを楽しむことができるのです。(ヘレン=ケラー)」 |
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