「生きる理由」(マタイ4章4節) ( 2.17/2013 )
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。マタイ4章4節

大震災から2年が過ぎようとしています。多くの愛する方々を失い、今も途方にくれている方々が多くおられます。わたくしも先に召された方々を想うとき愛が足りなかったことを悔いています。しかし、その思い出は色あせることがありません。あたかも今も生きておられるようにその姿を思い浮かべるのです。それは旧友や職場の友かもしれませんし、家族かもしれません。とにかく少しでも自分が関心を持ち、接し、心を開き、語り合った方々であることは間違いないと思います。

生きる理由、それは自分には分かりませんが、もしかすると自分と接してくれる方々が長い期間をかけて、わたくしたちの生き様を思い返しながら見出してくださるものなのではないでしょうか。

「神のことば」とは神との出会いの断面を収録したものであり、本の中に隣人を得るように聖書は神との出会いを提供しているのではないでしょうか。しかし、カルヴァンのような偏狭な思想に陥らず、ご近所の方のおひとりと出会うことと同じ重さで聖書と向き合うなら、そこにはたった一人選ばれ、たった一人断罪された人間が出てきます。それはイエス・キリストです。ですから、様々な不幸がわたくしたちの人生に押し寄せますが、それは決して神の愛に雲がかかっているのでもなく、神の裁きでもないと言えます。ある神学者は、「棄却される者もまたこの選びの光の中に立っている」と言いました。すなわちアウグスティヌスは聖書の言う審判という一幕において人を2種類に分けましたが、百歩譲って救われる者に選ばれなかったとしても神の裁きのほうが棄却されているのです。

「ただ一人本当に棄却された人間は神ご自身の御子である」という言葉があります。どんな時にも神の顧みだけはわたくし達のために残されているのではないでしょうか。

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