「人が愛する人、神が愛する人」(ルカ20章20〜26節) ( 2.25/2013 ) |
「するとイエスは彼らに言われた、『それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい』。」(25節) 家族から省みられなくなるとき、という事態について考えてみました。それは、わたくし自身が過去において家族を十分な愛を持って愛せなかった辛い思い出があるからです。愛する理由を捜してみました。 人が愛を失うのは経済的な困難が根底にあるのではないかと仮定してみたのですが、自らの過去を顧みるとき簡単に否定されました。お金も生きがいもあったときに身近な方への思いは寂しいものだったからです。そこで、わたくし自身が愛される価値が無ければならないという脅迫に似た感覚を持っているために隣人に対しても同じ価値観を押し付けてきてしまったのではないかという思いに至りました。 主イエスは「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と言われました。カイザルは当時のローマ皇帝でした。「カイザルのもの」とは、彼が統治していた領土内の経済全般を指していたでしょう。しかし、「神のもの」とは神から受けた生命そのものでありましょう。これは単に大祭司たちに神へのささげものを横領してはならないと忠言されたということかもしれませんが、権威に対して無力になりがちな私たちにとってはお金の問題を越えた大きな示唆があると思います。すなわち社会が人の価値を決めるのではないということです。人が愛される価値は神のものなのだと教えてくださったのではないでしょうか。 愛する理由を捜してきましたが、私たちが愛している方がたとえ故人になってしまっていたとしても、人に生を与えることができた神は死後も生前と同じ価値を与えてくださっているでしょう。人の価値は神によって保障されているのです。すべての人のために愛する理由を私たちは持っているのです。 |
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