「聖霊は自分の満足ではない」(マルコ8章27〜38節) ( 3.4/2013 )
「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、『サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」。(33節)

教会の存在意義は何だろうかということを考えてみたいと思います。それは「きよめ」を強調するグループにも失態が多いからです。元来「きよめ」のモデルは聖霊による刷新運動と言いますかリバイバルを伴う悔い改めの実を指していた様に思います。しかしその結果、きよめられたと実感した人であればあるほど、家族や社会からは分離し教会の活動や神との交わりの中に生きる生活になっていったのではないでしょうか。

本当のきよめは初代教会のペテロやヤコブの中に見出すべきものなのでしょうか。私は聖霊の刷新運動を否定しませんが、マルコがペテロに対して「サタンよ、引きさがれ」と叱責していることを考えますと、
初代教会の時点で既に主イエスが証しした福音と違う形の教会が形成されていたのではないか、そのためにマルコの他にマタイやルカやヨハネといった福音書記者が必要となり、それぞれの団体に都合の良い福音書が書かれたのではないか、と聖書を読んでいて感じます。

恐らく、異邦人版ユダヤ教というのが初代教会の実態だった、それに対してマルコは(そうではないだろう)という思いをもって主イエスの活動を福音書に記したのではないでしょうか。初代教会に対して考え直してもらいたいことがあって書かれたのが福音書、既に初代教会の教理として受け入れられていたものが著されているのがパウロ書簡等の手紙、と考え現在の順序を入れ替えて考えますと新約聖書も福音書以外の部分はユダヤ教の焼き直し(異邦人版という意味)で、この団体への批判文書が福音書となります。しかし、現実には聖書としてまとめられた順序が巧みに操作され教会組織に都合の良いメッセージが強調されているのではないでしょうか。

今日お読み頂きました短い箇所のキーワードは「自分」です。その「自分」を捨てることが勧められています。自分の満足を捨てること、これが主イエスが伝えたかった神の福音だったではないでしょうか。自己満足をあきらめたとき、そこに残されるのは現実の重荷かもしれません。しかし、主イエスにとっては「わが神」、がどんな中にもいて下さったと伝えたかったのではないでしょうか。もし神以外のものを宣伝するキリスト教ならばペテロと同様に叱責されるのではないでしょうか。

小説に出てくるテレーズという女性は自分の行動をうまく説明できないのですが、そんな彼女を夫は守り、守りつつ距離を置くのです。その苦しみを綴った小説でしたが、一方には現実の世界に苦しみもいとわず聖書の言葉という理由で孤独に耐える女性もいます。社会通念や信仰が人と人とを分けてしまっています。もし1ヨハネ2:2やヘブル10:18の罪の概念をイエスが批判されたのだとしたら、本当の十字架とは何なのでしょうか。過ちや一方的な義さえも受け入れる神と人で人は支えられているのではないでしょうか。

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