「信仰についての一考察-くじけそうになるとき」(マルコ9章14〜29節) ( 3.11/2013 )
「イエスは彼に言われた、『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる』。」(23節)

信仰とは、奇跡ではなく淡い期待で良いのではないでしょうか。神への妄信ではなく、現実の受容と努力で良いのではないでしょうか。

22節の「殺そうとします」とは、現実に病が原因で事故が起こっていたことを示唆していると思います。けれども、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」という言葉を聴いたとき、父親は(信仰とは、奇跡の待望ではなく苦難を受け止めることなのだ)と気づいたのではないでしょうか。
なぜなら、病なのは親ではなく子どもというシチュエーションだからです。親には子を愛おしく思うところがあると思いますが、それさえも挫けそうになることもまたあると思います。だからこそ、先の主イエスの言葉を聞いたとき「不信仰なわたし」と告白したのではないでしょうか。
神への信仰とは完璧な親になることではなく、「不信仰なわたし」であることを認め、(子を受け止め得る親になりたい)と淡い期待を持つ心の態度で良いのではないでしょうか。

伊藤隆二は『この子らは世の光なり』でライアル・ワトソンの言葉を紹介しています。それは「教育は、人を既成のイメージにあわせ、これまでの間違いを忠実に再現するコピー人間を生産することに全勢力を費やしている」というものです。信仰にも既成のイメージがあるのではないでしょうか。
この本で伊藤は人の価値をアキラの書いた絵と千手観音(千手観音の手には目がついている、その千個の目でこの世の一切の苦を救うと言われている)という言葉で語っているように思います。アキラはいつも6本の腕のある人を描きました。彼は口では上手に説明できませんでしたが、クレヨンと饅頭とチョコレートとみかんともなかなどを持つためには、どうしても手が6本必要でした。絵は彼にとって淡い期待の表現でした。しかし少年の心を支えていました。けれども教師Tさんに社会の常識を押し付けられ殴られ2本の手の付いた人の絵を描かされたとき、クレヨンを持たなくなり、好きだった饅頭もチョコレートもあまり食べなくなってしまいました。教師の社会基準がひとりの子どもをボーっとした子にしてしまいました。

人の存在の価値を考えたとき、聖書の証言とは違う結論になってしまいますが正気を取り戻したのは父親だったのではないか、と思うのです。子が何本手を描くかわかりません。けれども神はいつも父親を励まして下さっているのではないでしょうか。

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