「共に生きる生活」(創世記32章1〜8節) ( 3.18/2013 )
「使者はヤコブのもとに帰って言った、『わたしたちはあなたの兄エサウのもとへ行きました。彼もまたあなたを迎えようと四百人を率いてきます』。」32章6節

なぜ、この町に教会があるのだろう、このような素朴な疑問をもってくださる方もおられると思います。教会は政府が政治のために建立したものではありません。ボンヘッファーは『共に生きる生活』の中に「ただ自分でも罪の告白にまで身を低くする者だけが、傷つけられることなしに兄弟の罪の告白を聞くことができるのである」と記しています。為政者のために作られたのではなく、神が人のために備えてくださった場所です。

教会の存在は寄付で支えられているのですが、教会に仕えている牧師と家族も同様に寄付で支えていただいる者にすぎません。負いきれない問題を神に告白するとき、もし自分の力で立っている方に聞いてもらうとするなら(裁かれないかな)など考えてしまい勇気がいるでしょう。しかし、教会にいるのは神が与えてくださった隣人の愛に支えられている牧師です。愛によって支えられている牧師ならば皆様の重荷も同情できる心を持って聞けるのではないでしょうか。また神に共に祈り助け合って生きるのではないでしょうか。

徳川家康は幼少の頃、争いごとを目にしたとき少数の集団に加勢をするように命じたそうです。それは問題が大きければ大きいほど必ず大きな恵みに変わることを知ってほしいという願いからでていたのだそうです。
共に生きる仲間を得る、これはこれからの人生を大きな恵みに変えるために必要なことではないでしょうか。何も持たない弱い友、役に立たないと思われるかも知れませんが、ただ神の前に共に生きるために教会に居りますのでいつでもお尋ねください。

TOP