「これからの生き方」(ルカ19章8節) ( 4.18/2013 )
「もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。
                           (ルカ19章8節)

「四倍にして返します」とは法外な、と思われませんか。しかしこれは出21:37とサム下12:6に定められていました。すなわち、彼の生涯はここに回復したのです。そしてこの回復はマルコによれば、主イエスが現れたとき「天が裂け」(マルコ1章10節)たと言っています。天が裂けたとは神との直接的な交わりを指していると思われます。

パリサイ人は掟を守ることで神に近づこうとし、サドカイ人は様々な贖いの儀式によって神に近づこうとしました。しかし掟は守れず、儀式もまた繰り返さねば心は満足しませんでした。すなわち、人々は同じ失敗を繰り返していたのです。そのような中、(ペテロ以降のキリスト教会は使徒行伝2章42節にあるような定められた生活態度を救いをしるしとしましたが)イエスは当時の権力に屈せず罪の状態にある方々と食事を共にし、癒しなどを行いました。宗教指導者と主イエスの違いは何でしょうか。宗教指導者たちは正しいことを教えることはできましたが、罪人を避けて生き、恐らく指導者自身の生涯も失敗の連続でした。一方主イエスは罪があっても交わりを持ち、交わるどころか彼らの罪を負い、彼らに新しい人生を生きる勇気を与えました。主イエスは四倍にして返すことを教え、罪を犯した人を差別しませんでした。彼らにとっては天が開けた思いがしたのではないでしょうか。そして失敗の場に帰ることのない秘訣を学んだのではないでしょうか。

レフ・トルストイという作家は「愛のあるところには神もいる」という作品の中で次のような言葉を紹介してくれています。「マルティンは偉い人間でしたが、年をとってからは、ますます自分の魂のことを考えるようになり、ますます神様に近づいてゆくようになりました」「がっかりしてしまうというのは、つまり、おまえさんが自分の楽しみのために生きようと思っているからだよ」と。

「わたしは、神さまがくれたもののうち、たった二つのもの(見る力、聞く力)を失ってるだけです。その二つのほかには、いろいろな贈りものをもらっています。そのうちで、一番大切な贈りものは心です。・・・もっとよくなるように育てることができる心によって、わたしは、神さまがくれるたくさんの恵みを楽しむことができるのです。(ヘレン=ケラー)」

あるスポーツ選手は後輩にこうアドバイスしました。「失敗を握りしめてつぶれるのではなく、この失敗があったからこそ現在があるという生き方をしよう」と。過去にいつでも戻れる生活をするのでなく、主イエスと出会い神のものとされたのですから、過去の失敗をバネにして全く新しい生き方=神と隣人と自分自身を喜び正しく生きる人生を選択し続けましょう。

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