「恐れるな」(イザヤ書43章1節〜7節) ( 4.21/2013 )
「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。・・・』」。
                                 (1節)

紀元前597年にネブカドネザル王はエルサレム市街に入城しエホヤキム王他約3000人の主だった人々を殺害し、紀元前586年7月11日にエルサレムは破壊され、ゼデキヤ王以下10832人に及ぶユダヤ人たちはバビロンへ連行されました。

「恐れるな」との啓示を受けたイザヤの声を聞く人々にとって、神のなされた捕囚は約束に反して大変酷な出来事でした。続く3節のエジプト、クシュ(エチオピア)、セバ(イエメン)は共に紅海沿岸の大国でしたが、これらの国々がイスラエルの代わりにバビロンによって占領されてイスラエルが解放されるという預言もまた成就しませんでした。現代も牧師は「主イエスの贖いがあるから大丈夫です」と言いますが現実は困難に翻弄されながら戦っているのが現状です。

では、神はなぜ贖われた実感をもてない人々に「恐れるな」と言えるのでしょうか。それは、贖いにふさわしい姿に変える責任はわたしが負っているからという意味ではないでしょうか。前の歴史ではイザヤ自身に、新約聖書の時代に下ると使徒たちに、そして現代では牧師や今、信仰を抱く方々も救いは神のみによることを証言しているのです。贖いはわたくしたちのわざでなく神のみわざに帰すべき案件なのです。

「贖った」とは何を意味しているのでしょうか。それは全く新しい人生が与えられていることを表していると言えます。すなわちそれは以前わたくしたちを捕らえていた力の及ばない別な人生に入れられたことを意味しているでしょうし、また十分な代価が既に支払い済みであるということでありましょう。

伊藤左千夫の「野菊の墓」の政夫は、起こっている出来事の意味が分からず悲しんだ時期がありました。けれども、彼もその悲しみが癒される時が来て母を気づかう姿が描かれています。墓に立ちすくんだのではなく「決然学校へ出た」とは、神の方法で十分に苦しみが贖われ更に家族を労わるまでにされた結果でした。ときにわたくしたちも主イエスに癒された人々と同じ出来事が起こらないとき神の愛を疑ってしまいます。けれども贖う方法は神のものなのではないでしょうか。「ちからは神にあり 神ひとたび之をのたまへり われふたたびこれをきけり」(詩篇62篇11節)力が注がれる時がいつなのかも神のもの、ですから恐れないで生活しましょう。

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