「神の存在証明」(マルコ10章17節〜22節) ( 4.29/2013 )
「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(21節)

神様っておられるのでしょうか。永遠の命や神の国は存在するのでしょうか。昨年10月16日のChristianTodayに米国の調査機関『ピュー・フォーラム・オン・レリジョン・アンド・パブリック・ライフ』の「米国、国民の2割が『無宗教』」という記事が掲載されていました。「米国の成人の間で「無所属」を主張する人が増加、5年前の15%から20%になった。世代交代による影響と同機関は見ている。65歳以上では9%に留まっているのに、30歳未満では32%に達している。さらにプロテスタントと自認する人が減少を続け、ついに48%と過半数を割ったことも分かった。カトリックは22%を維持している。40年前の1972年には、プロテスタント62%、カトリック26%、「無所属」7%だった。
」とのことです。

マルコ10章17節〜25節を客観的に観察して気になることは、『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』という掟を守ることによって永遠の命を持っている確信が得られなかった点です。

イエスの教えは「神を信じて金持ちになる」という思想とは逆で、この若者に対して富を貧しい者に分け与えてついて来ることを勧めました。すなわち神は何も持っていない人にご自身を現してくださるということではないでしょうか。これが金持ちアメリカのキリスト教離れの原因ではないでしょうか。
すなわち神の国や永遠の命の定義が間違っていたのではないでしょうか。貧しいままでも、または病気のままでも神はそこに神の国を見せてくださり、永遠の命の意味を教えてくださるのではないでしょうか。神の存在を感じて証しできるのは、正しい生活を誇れる人々ではなく、また富んでいる人々でもないということだと思います。

伊藤隆二の「この子らは世の光なり」に登場する辰男は生まれてすぐに捨てられ両親のいない中で育てられました。しかし、彼の最期は多くの病人の命を救い自らの命を終えました。何も誇れない何も持たない人のために神は助けの手を伸べてくださるのではないでしょうか。

神の国や永遠の命というものは獲得するものではなく、神に向かって心を開き迎え入れるものなのではないでしょうか。神は誇れるものを持たない人にご自身を現してくださり、命を分け与える隣人まで与えてくださるのです。

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