「偉くしているのは誰」(1コリント4章1節〜17節) ( 5.12/2013 )
「彼は、・・・思い起こさせてくれるでしょう。」(17節)

使徒パウロは神の奥義を管理している人々に対して語りかけていますので、恐らく偉い人のようにふるまっていたのは指導者の方々でした。しかし、パウロもまた自分の信仰生活の過ごし方について誇っている面が見えますのである面、自分を偉い人のように思っていたひとりであったと言えるでしょう。

コリントの教会に起こっていたのは分裂の危機でした。何かに秀でた指導者がいたときにその人に付いて行くと言って分派が起こっていたようです。この場合、別れていく方々は当然自分たちは正統派だと主張しているわけです。けれどもパウロの取った手段は単純でした。すなわち、テモテを遣わすという方法でした。
17節に「キリスト・イエスにあるわたしの生活の仕方を思い起こさせるであろう」と言っていますがテモテという一人の人物が交わりに加わって何ができるのだろうと思いますが、恐らく何もできなかったのです。しかし、基本的な生活の仕方を思い起こすことを通してコリントの教会のメンバー一人ひとりが神につながるだけで問題解決には十分だったのでしょう。

間違った信仰があると同様に正しい信仰も確かにあります。しかし、正しい思いを与えることができるお方も神以外にはおられません。すなわち、自分たちを無力な存在だと認めて神の前に祈る生活に帰るために無力なテモテを遣わしたのではないでしょうか。テモテにできたことは祈り以外になかったのではないかと想像します。けれども祈るテモテが一番神の助けを証しできたことでしょう。

わたくしも大分福音キリスト教会に着任したしまして一番驚いたのは礼拝前のお祈りの時間でした。神のみ前に心の頭を垂れて祈る前任の牧師と信徒さんたちに教えられました。

新しい聖い心は祈りを通して神から授かるものなのではないでしょうか。わたくしたちの心をくじきへりくだらせることができるお方も神のみ、ではないでしょうか。偉くしてしまうのはわたくしたちそれぞれかもしれませんが、(わたくしたちを変えることができるのは神のみ)、と信じて祈り、神にすがって、神からの命と平安を受け続けようではありませんか。

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