「きよめられた心」(1ヨハネ1章1節〜10節) ( 5.19/2013 )
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(7節)

先週ザ・マーガレットの6月号に「友情」をテーマにした漫画があることを教えていただきました。どんな展開になるのかワクワクします。傷ついた心がどのように癒され交わりが回復するのでしょうか。ヨハネは神との交わりを通してわたくしたちの心が変えられていくことを教えています。

まず「きよめます」の語彙について調べてみました。そして、ある宣教師の伝記から「神との交わり」について調べてみました。そして最後に「御子イエスの血」について考察してみました。

まず、「きよめ」についてですが新約聖書に大まかに3種類のきよめに関する言葉が用いられていました。聖別するという意味のハギアゾー、行為行動、身をきよめるという意味のハグニゾーそして、きよいと宣言するという意味で用いられているカサリゾーです。
このところで用いられているのは3番目のカサリゾーです。ヘブル人への手紙10章で他の言葉との違いを説明しますと、数々の動物の犠牲と儀式できよめられることはなかったという2節がカサリゾーで、10節の「わたしたちはきよめられた」(口語訳)がハギアゾーです。
カサリゾーよりもハグニゾーが、それよりも更にハギアゾーがきよいという用いられ方なのでしょうか。すなわちこのヨハネの第一の手紙の1章7節は特別で十全なきよさというよりも、最初に受けるきよさというニュアンスがあるかと思います。
(カサリゾーとハグニゾーの関係についてはヤコブ4章8節を参照してください。)

次に「交わり」についてですが、ある宣教師の伝記から学んだところによりますと、「自分の人生は聖書の中に見出す原則と結果によって導かれ支えられてきた」と言っておられました。この客観的な読み方について、今まで主観的な読み方しか知らなかったわたくしは以前は間違っていると思っておりました。しかし、本当は物語の中に信仰生活の場をもっていたわたくしの方こそ未熟であり間違っていたのだと気づいたのです。神との交わりの場は書斎ではなく実生活の場面場面の中であり、聖霊に聞き信頼し行うために聖書から教訓を引き出す必要があったのだと気づかされました。この伝記には「彼らは初めから聖霊に信頼すべきことを教えられ、問題の解決は何にかかわらず聖書に見出すように訓練された」、また、わたくしたちは「真理を直接聖書に求め、神の御霊を受け、御霊に支えられて聖い生涯を宣べ伝えるために召された」のです(B.G.バックストン)と記されていました。聖書の中の世界に満足するのでなく、実生活での神との交わりを神との交わりというのではないでしょうか。

最後に「御子イエスの血」についてですが、血はひとつなのですが、受け取り手の信仰が千差万別なのではないでしょうか。ある方はすべての罪のために主イエスに信頼し、ある方はごくささいな失敗のためにだけイエスに頼るのです。ここで問題となるのが光の中を歩むということではないでしょうか。これは恐らくキリストとの距離のとり方の問題です。主イエスに倣おう思えばすぐ近くまで近づき距離を空けないように注意するのですが、キリストを罪の処理機程度にしか考えていない場合はイエスとはかけ離れた生活をしてしまうのです。もし、イエスに近づく気持ちが無いようでしたら、是非、今悔い改めてイエスに倣う生涯を始めようではありませんか。イエスの生涯は近づけば近づくほど罪の赦しの大きさと同時にわたくしたちのために負ってくださった彼の痛みを知らされるのではないでしょうか。そして罪がきよめられた喜びも神と更に深く共有できるのではないでしょうか。ある宣教師はある趣味を捨てたのです。誰かの躓きになる趣味だと示され捨てたそうですが、自分の喜び以上に隣人を省みるその姿にキリストの香りがあるのではないでしょうか。

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