「救いの喜び」(マルコ1章40節〜45節) ( 5.26/2013 )
「わたしの心だ。きよくなれ。」(41節)

先々週ご近所の神社に手を合わせて祈っている方をお見かけしました。しばらく祈っておられましたので様々な願い事があったのだと思います。一方、聖書は肉欲や人間的な弱さについて(御霊に導かれ、キリストにおることによってのみ防がれる。反対に恩寵は達成される)ことを教えています。すなわち、神は御霊によって私たちをキリストに導いてくれるはずであり、そして同時に神によってのみ支えられていると証言できるくらいの力があるはずです。

マルコによる福音書1章には主イエスに「わたしの心だ。きよくなれ。」(41節)と言われて治癒した方が出てまいります。ここでわかることは、聖書が証言している神は人をきよくする神であり、第二に即座にきよめることができる神であるということです。(ここの「きよめる」という言葉は聖別するとか、洗いきよめるという言葉というよりは生活の中で神との交わりが回復するという意味で使われている言葉です。)

わたくしは以前この聖書の言葉で立ち上がる力を得たことがございます。それは、罪びとを神が愛してくださっているというメッセージを伝えることができていないという罪悪感と、ときとして知らないうちに言葉で人を傷つけてしまうことがあるため(周りの人々は自分のこと酷い人間だと思っているのでは)という恐れにとらわれていました。しかし、神に祈る中で神は今日共に学ばせていただいているマルコによる福音書の1章を思い出させてくださいました。
そこには「わたしの心だ。きよくなれ。」(41節)と記されており、一つの確信が与えられました。それは神だけは離れていかないという確信でした。そして主イエスの「きよくなれ」と言って下さるお心に励まされました。
先週読みました漫画の主人公もひとりで立ち上がったのではありませんでした。弁当作りが苦手で先に進めなくなったとき、寮の友人たちが彼女を助け彼女は前進し始めました。

「お心一つで、私をきよくしていただけます」(40節)は万民共通の祈りでしょう。そして今日教えられますのは、主イエスが私たちに「わたしの心だ。きよくなれ」と語りかけて下さっているということです。主イエスという友が彼にとっての救いの喜びだったのではないでしょうか。そして、きよいと信じてくれている主イエスが全ての人のためにいてくださることが救いの喜びではないでしょうか。

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