「将来を与えるキリスト」(ヨハネ3章1節〜21節) ( 6.2/2013 ) |
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(16節) 昔々、ユダヤの国にニコデモという国会議員がいました。彼は主イエスが行った奇跡を見て神から来られた教師として主イエスを信じていました。それゆえに、地上の老人ホームの入りかたではなく神の国の入り方について質問しました。 主イエスの答えは「人は水と霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできない」でした。水から生まれるとは、古い生き方に死ぬことを意味しています。すなわち具体的には(古い生活を悔い改めること)を言っています。次に、霊から生まれることについては、天でなされることなのだと主イエスは説明しています。すなわち、その例として風は思いのままに吹いてそれがどこから来てどこへ行くのかわからないけれどもその結果は皆見たり感じたりすることができるように、霊から生まれる人も神によって生まれるのだという答えでした。 ここで、人としてどうしても自分の力で結果を得たいという心理が働きます。それでニコデモは「どうして、そのようなことがありうるのでしょう」という疑問を投げかけます。 それに対して主イエスは人の子があげられなければならないこと、そして神がひとり子をお与えになったほどに世を愛されたと告げます。前者は主イエスの十字架を指しており私共の罪の赦しの証拠です。そして後者は人が救われるのは愛によることを教えています。 わたくしたちの死後に必要なものはわたくしたちの地上での功績ではなく、ただ神がわたくしたちを愛してくださったというこの出来事だけで十分なのだと教えているのではないでしょうか。わたくしたちの将来は、御子によって示された神の愛が保証してくれています。 では、現在の困難は神の愛と矛盾しないのでしょうか。マルコによる福音書は「神は生きている者の神である」と教えています。ゆえに、避けたいと願ってしまう困難の中にこそキリストは共にいて下さる、神と出会う場は苦しみの場であるとキリストの十字架は証言していると思います。今、そして将来にわたって居ることができないと思ってきたところがキリストのおられるところであり、実は慕わしい場所、神が共に過す為に待っていて下さる場なのではないでしょうか。 霊的遊戯で終わらないのだ、十字架の生涯を歩める、ということをキリストは証ししてくださったのです。 |
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