「心が荒れすたれたとき」(雅歌6章12節) ( 6.10/2013 ) |
「私自身が知らないうちに、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。」雅歌6章12節 先週は、苦しみの中(十字架)に主イエスは共にいて下さることをご一緒に考えました。雅歌6章には行き違った夫婦が再び同じ車に乗るというストーリーになっています。これは十字架で終わらないということではないでしょうか。復活の生活がある、と言っているようです。 何を申し上げようとしているのかといいますと、「知らないうちに夫の車に乗っていた」、すなわち復活の人生を今生きるということです。バックストンという牧師の説教に「今までは自分の力で、すなわち徒歩で生涯を送りました。けれども今もはや聖霊の力に頼りましたから、安らかに乗り物に乗って生涯を暮らします。」とあります。 またある信徒さんは失望という最も苦しいとげが抜けなくて苦しんでいたのですが、神の御旨は新たな重荷でなくそのとげを抜くものであることを教えられ、神の御旨であれば喜びさえも捨てる喜びがあることを悟り悩みが解決したそうです。 そしてある信徒さんは「心をつくして主に信頼せよ」(箴言3章5節)との命令に従ったとき、雅歌6章12節の意味に目が開かれて「彼はもはや外から帰る友ではありません。何の反逆心もありません・・・こうも長い間荒れすたれていた心に住まわれるのを承諾してくださったこと、感謝にたえません。」と証ししています。 雅歌には(愛を無理やり掻き立てないように)というメッセージが3回繰り返されています(2章7節、3章5節、8章4節)。けれども、今置かれている場がどこなのか、すでに高貴な方の車に乗せられているのではありませんか、と問われている気がするのです。そして、彼の車の中で旅路の困難についても彼の導きを得たいと思うのです。 |
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