「やもめが伝えたかったこと」(マルコ12章28節〜44節) ( 6.23/2013 )
「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(44節)


罪を悔い改めてどこに向かうのでしょうか、旧新約聖書に探しますと、恐らく最高の掟である神を愛し隣人を愛する(マルコ12章33節)というところに帰結しています。マルコはその続きにダビデも、神とキリストとの関係から励ましを受けていたでしょう、と説明し、具体的に律法学者の振る舞いとやもめの振る舞いを比較しつつ記しています。この二つの違った生き方の中のどちらに最高の掟があるかと問い、明らかにやもめの生き方に神の掟が現されていると語っています。

やもめは神がおられる世界に救いを見て、彼女はただ神によって支えられていることを証ししたかったのです。現在も教会役員会に一つの議題が提出されていますが、その発議は神の恵みを受けた結果、神を愛そうと思ったのだけれども、その具体的な表れとして隣人をどのように愛すればよいのかという相談がありこのことの為に役員さんたちは祈っておられます。また、ある教会では飛行機や新幹線を利用してまで神から受けた愛を隣人に届けようとしておられます。またこの教会で数年間共に教会生活をされた姉妹も海外の隣人を愛するために今出発しようとしておられます。

わたくしたちにとっての救い(きよめ)とは何なのでしょうか。それは何かを得ることではなく神に支えられることであり、神によって隣人のために労することなのではないでしょうか。寡婦は自らの生活の中にでなく外に、神に委ねた世界に救いを見たいと願ったのではないでしょうか。もし、神抜きで自分の栄光を追っていた部分があったならば悔い改め、神の御思いを聞いて神と共に労することができたら幸いではないでしょうか。

ところが、政治家の先生たちのように解っていても何かの力に流されるように生きてしまう、そんな日々かもしれません。しかし聖書はこう言っています。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。・・・」(へブル10章19節〜)神に近づく橋をこちらから渡すのではありません。神が主イエスの十字架の血潮であちらからこちらに渡してくださっているというのです。このお方を捜してみませんか。主イエスにあって安息を得るまで心安んじないようにしましょう。そしてこのお方の御前にあって常に互いに励まし合いましょう。

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